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あの人の直筆

目次
あの人の直筆第2部 近現代第2部 第6章 実業家

第2部 近現代

第6章 実業家

岩崎弥太郎(いわさき やたろう) 1834-1885

明治期の実業家。土佐藩出身で、同藩の吉田東洋や後藤象二郎らに取り立てられ、藩の貿易に従事した。藩営の土佐商会等を経て、三菱商会を創設。大久保利通、大隈重信らと関係を深め、政府の手厚い保護のもとで独占的に海運業を行い、三菱財閥の基礎を築いた。

100 岩崎弥太郎書簡 明治10(1877)年3月4日【上野景範関係文書(寄託)7-2-2

岩崎から英国在勤の特命全権公使上野景範かげのりに宛てた書簡である。前半では、英国に留学する三菱社員の子息ら2人に対する庇護を依頼しており、後半では、鹿児島出身の上野にとっては特に気にかかっていたであろう、西南戦争の戦況を伝えている。当時三菱は、この社船38隻を投じて政府軍の軍事輸送に協力していたため、岩崎には戦況に関する多くの情報が入っていたものと思われる。この軍事輸送による功績は、三菱が一大産業資本として飛躍する契機になったといわれる。

岩崎弥太郎書簡

岩崎弥太郎書簡

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留学生と男爵薯

岩崎弥太郎の手紙に登場する留学生の「龍吉」は、岩崎の片腕として活躍した川田小一郎の息子である。21歳の時にイギリスに留学した龍吉は、当地の女性ジェニーと出会い恋仲になった。しかし、結婚はかなわずに帰国。その後は造船業界のために長く奔走するも、かつての恋人のことは忘れがたく、後年、イギリスで食べた恋人との思い出の味であるジャガイモを北海道に普及させることに努めた。そして、そのとき龍吉が男爵になっていたことから、彼が栽培した品種は「男爵薯」と呼ばれるようになった。
掲載した手紙は、龍吉が留学する直前のもの。岩崎はそのなかで、イギリス在勤の特命全権公使、上野景範に対し、これから新潟丸に乗船してイギリスに向かう龍吉ら留学生に対する庇護を求めている。この先に自分を待ち受ける運命を知らない龍吉は、英国留学への夢を膨らませていたのだろうか。


五代友厚(ごだい ともあつ) 1835-1885

実業家。号は松陰。薩摩藩士の家に生まれる。幕末に藩命で渡欧し、武器などを輸入。明治維新後、官界から実業界に転じる。藩閥政府とつながりが深く政商とも呼ばれた。鉱山、鉄道、製藍など多くの事業にたずさわり、明治11(1878)年には大阪商法会議所(のちの大阪商工会議所)を設立して関西経済界の基礎を築いた。明治14(1881)年には開拓使官有物払下げ事件への関与で世論の批判を受けた。

101 五代友厚書簡 明治14年(1881)年10月29日 【前田正名関係文書(その2)23-1

薩摩藩出身の大蔵官僚前田正名に宛てた書簡。生糸の直輸出に関連して、反対派の官僚が新任の大蔵卿松方正義を説得するかもしれない可能性を伝え、推進派の前田に助言を与えている。当時、日本最大の輸出品である生糸をめぐり、日本人商人と外国貿易商が対立していた(いわゆる「生糸荷預所事件」)。日本にとっては直輸出により外国商人の中間搾取を排除するのが悲願であり、五代もそのために陰で動いていたことがわかる。同月、五代らの関西貿易商会への北海道開拓使の官有物払下げが取り消されたばかりの時期であった。

五代友厚書簡(冒頭)

(封筒)

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渋沢栄一(しぶさわ えいいち) 1840-1931

明治・大正期の実業家。一橋家に仕えて幕臣となり、パリ万国博覧会への幕府使節団に加わって欧米を視察、帰国後は新政府に出仕し大蔵省を経て、第一国立銀行を創立した。これを足掛かりとして王子製紙、東京証券取引所など、500以上もの企業の設立に携わった。「日本資本主義の父」といわれる。

102 渋沢栄一書簡 明治28(1895)年2月13日【榎本武揚関係文書54-6

渋沢から農商務大臣の榎本武揚に宛てた書簡。新しい製紙工場を設立するにあたり、用地決定のための調査を行う許可を求めている。この当時、日清戦争などにより新聞原紙の需要が増え、洋紙が不足していた。渋沢が設立した王子製紙では、洋紙の原料として当時使われていた襤褸ぼろきれなどに替わり木材パルプを採用するとともに、新工場を建設することで対応しようとしたことがわかる。

渋沢栄一書簡

渋沢栄一書簡

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大倉喜八郎(おおくら きはちろう) 1837-1928

明治・大正期の実業家。幕末・維新の動乱期に鉄砲を販売して利益を得た後、大倉組商会を設立して貿易事業を始め、諸外国との貿易を通じて大倉財閥を確立した。帝国ホテルや帝国劇場、大倉商業学校(のちの東京経済大学)などの設立にも携わった。

103 大倉喜八郎書簡 明治34(1901)年6月28日 【伊藤博文関係文書(その1)243-4

大倉から伊藤博文に宛てた書簡。横浜の「山ノ手160番館」のジャクソン宅を訪問する日時について伊藤に連絡する内容であり、伊藤の意を受けた大倉が、あらかじめ電話で先方との日程調整を行ったことを示す記述がある。書簡に登場するジャクソンは、英国資本の有力銀行、香港上海銀行の頭取トーマス・ジャクソンと思われる。ジャクソンは明治4(1871)年から4年間にわたり同行横浜支店の支配人を務めた経歴をもち、頭取となった後も日本の公債引受けなどを推進した。

大倉喜八郎書簡

(封筒)

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広岡浅子(ひろおか あさこ) 1849-1919

実業家。京都の豪商、出水三井家(のちの小石川三井家)の四女。17歳で大坂の豪商加島屋の広岡信五郎と結婚。維新後は、炭鉱の経営や銀行・生命保険会社の設立などに携わった。成瀬仁蔵(教育家)と知り合い、彼の著作『女子教育』に共感し、日本女子大学校の創立に関わるなど、女子教育の発展にも尽力した。

104 広岡浅子書簡 明治41(1908)年2月6日 【古島一雄関係文書33-6】

広岡浅子の囲碁好きを偲ばせる書簡。浅子が後援する中川千治(6段、のち2代目中川亀三郎)と、「国士の大立者」頭山満が後援する田村保寿(7段、のち本因坊秀哉)の十番碁2局目は、上野伊香保楼で行われ、中川の五目勝ちで終わった。掲載資料は、大阪にいる浅子が、電報でこの結果を知った直後に、雑誌『日本及日本人』(【雑54-36ハ】)の観戦記者である古島一雄に宛てて書いたものである。後援する棋士の勝利を喜ぶと同時に、大酒を必ず止めて今後の対局にも真剣に臨むよう、中川への伝言を頼んでいる。

広岡浅子書簡


御木本幸吉(みきもと こうきち) 1858-1954

実業家、養殖真珠の創始者。三重県鳥羽でうどん屋の長男として生まれる。家業を手伝いながら青物行商を行い、やがて海産物商などを営むようになる。明治26(1893)年に世界で初めて半円真珠の養殖に成功、続いて球形の真円真珠の養殖に成功し、明治41(1908)年に特許を取得。その後改良を重ね大正8(1919)年にはより優れた真円真珠が採取できる「全巻式」の養殖法に関し特許を取得した。その後、世界各地に販路を拡張するとともに国内外の博覧会に養殖真珠を出品し「真珠王(パールキング)」とよばれた。

105 御木本幸吉書簡 大正12(1923)年6月15日 【阪谷芳郎関係文書167

帝国発明協会の会長を務める阪谷芳郎(貴族院議員、元大蔵大臣)に宛てた書簡。以前会った時に阪谷が養殖真珠のピンを使用していたことへの喜びを伝え、日頃の愛用へのお礼と、今後の真円真珠の贈呈などについて述べている。署名の下に添えられた花押は真珠貝と真珠がモチーフと思われ、「真珠王」御木本のユーモアを感じさせるものである。


鉄道王たち

ここで紹介する根津嘉一郎小林一三堤康次郎早川徳次五島慶太の5人は、いずれも鉄道事業に関係した人物である。東武鉄道(根津)・阪急電鉄(小林)・西武鉄道(堤)・東急電鉄(五島)は、明治から大正にかけ次々と創業した大手私鉄であり、それぞれの創業者あるいは発展の基礎を築いた人物を知る人も多いだろう。沿線に住宅や娯楽施設を建設し、ターミナルには百貨店を設ける、という小林が創始した日本の私鉄経営のモデルは他の大手私鉄にも採用され、日本人の生活に大きな変革をもたらした。
彼らに比べ、日本における地下鉄の父と言える早川はあまり知られていない。自身が創業した東京地下鉄道が、五島率いる東京高速鉄道との対立に敗れ、同社の経営から手を引く形となったことが、早川にとっては不幸なことであった。しかし、今の都市部での地下鉄網の発達を見ると、当初は実現が疑問視された地下鉄建設を実現したその功績を忘れてはなるまい。

根津嘉一郎(ねづ かいちろう)(初代) 1860-1940

実業家。号は青山。郷里の山梨で村会・郡会・県会議員などを務めた。東京に進出後は貴族院議員、衆議院議員を務める一方、甲州財閥の一員として、同郷の実業家である若尾逸平、雨宮敬次郎らと活躍。株式投資で財を成した。明治38(1905)年には、営業不振であった東武鉄道の社長に就任。長く社長を務め経営を立て直した。そのほかにも、房総鉄道、南海電鉄など24社もの鉄道会社の経営に参加し、「鉄道王」と称された。

106 根津嘉一郎書簡 〔年不詳〕5月1日 【石黒忠悳関係文書920

茶会に招いた石黒忠悳ただのり(茶人としても有名)から「器物等」を褒められたことに対する礼状。根津は、美術骨董品の収集を若いころから行っていたが、「道具に附きものの茶の湯には中年から力を注ぐ」ようになったと述懐している。大正7(1918)年に東京青山の自邸内に設けた無事庵で開催した茶会を皮切りに、茶人としてもその名を知られるようになる。根津が収集した茶道具類は、その他の美術品コレクションとともに根津美術館(東京都港区)に収蔵されている。


小林一三(こばやし いちぞう) 1873-1957

実業家。慶應義塾卒業後、三井銀行に就職。明治40(1907)年の箕面有馬電気軌道(現在の阪急電鉄)創設時に専務となり、昭和2(1927)年社長に就任。鉄道を走らせるだけでなく、沿線に宅地を開発し、娯楽施設を設け、ターミナルには百貨店を開業するなど、鉄道経営の新たなモデルをつくりあげた。東宝や東京電燈(のちの東京電力)など多くの企業の創業、発展に関わり、財界で重きをなした。第2次近衛内閣で商工大臣を務め、戦後は幣原内閣で国務大臣兼戦災復興院総裁に任命されるも、間もなく公職追放となった。宝塚少女歌劇団(のちの宝塚歌劇団)の創設者としても知られる。

107 小林一三書簡 昭和12(1937)年9月4日 【石橋湛山関係文書(その1)138

小林は昭和10年代に経済情勢などについての論説を多く発表している。そのうち『戦時国債発行解決案』と『日本はどうなる? : 天佑!北支事変』の2冊を、東洋経済新報社で論客として鳴らした石橋湛山に贈る際に添えた書簡。また、冒頭には「天佑!北支事変」(単行本に先行して「天佑なる哉北支事変」として『文芸春秋』昭和12(1937)年8月臨時増刊にも掲載された)について湛山から意見をもらったお礼を述べている。用箋は、小林が昭和8(1933)年から社長を務めていた東京電燈のものである。

小林一三書簡(2枚目)

小林一三書簡(1枚目)

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堤康次郎(つつみ やすじろう) 1889-1964

実業家、政治家。軽井沢、箱根などの土地開発を手始めに事業を営み、次第に有料道路、鉄道へと事業を拡大する。旧西武鉄道を買収し自身が経営に参加していた武蔵野鉄道と合併することで、現在の西武鉄道の基礎を築いた。戦後、箱根・伊豆の観光開発への進出を企てた五島慶太の東急系資本と「箱根山戦争」と呼ばれる激しい紛争を繰り広げた。その一方で、大正13(1924)年には政界にも進出しており、昭和28(1953)年から同29(1954)年までは衆議院議長の座にあった。

108 堤康次郎書簡 昭和6(1931)年9月1日 【関屋貞三郎関係文書740

8月29日に立憲民政党による党葬が行われた浜口雄幸を偲び、関屋貞三郎宛てに送った絵葉書。絵葉書の写真の面に「海女」と書き込みをしている。文面から、浜口の生前に海女にまつわる何らかの思い出があったと推測される。

堤康次郎書簡(写真面)

(通信文)

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早川徳次(はやかわ のりつぐ) 1881-1942

実業家。山梨県出身。明治42(1909)年に同業の先輩である根津嘉一郎に見込まれ佐野鉄道の再建を託されたのが鉄道経営に関与するはじまりであった。大正3(1914)年に欧米に視察に行った際、交通網の発達に驚き、東京に地下鉄を建設することを決意する。当初はなかなか賛同者が得られなかったが、粘り強く調査と交渉を続け、大正9(1920)年に東京地下鉄道株式会社(現在の東京地下鉄株式会社(東京メトロ))の設立にこぎ着けた。同社は昭和2(1927)年12月に上野~浅草間で日本初の地下鉄営業を開始。「地下鉄の父」と呼ばれる。

109 早川徳次書簡 昭和9(1934)年7月10日 【石橋湛山関係文書(その2)30-1

同郷で古くからの「学友」であった石橋湛山へ送った書簡。この前月の6月21日に銀座~新橋間が開通したことで、東京地下鉄道の営業区間は浅草から新橋まで延びたばかりであった。「今度の事業は小生一代の事業として真に心血を注ぎ候間」との言葉に、地下鉄敷設に力を尽くした早川の思いが読み取れる。しかし、五島慶太が新橋~渋谷間の地下鉄を東京高速鉄道株式会社として開業し、両鉄道の相互乗り入れを提案すると、早川はそれを拒絶して両社は対立、早川が東京地下鉄道から去る結果となった。その後、戦時体制下での交通網整備の国策により東京地下鉄道と東京高速鉄道はともに解散し、帝都高速度交通営団のもと統合されて銀座線(現在の東京メトロ銀座線)として生まれ変わった。

早川徳次書簡(冒頭)

(署名部分)

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五島慶太(ごとう けいた) 1882-1959

実業家。東京帝国大学法科大学卒業後、官界に入り鉄道院で課長となる。その経歴から武蔵電気鉄道に招かれ経営に参画。小林一三の手法にならい沿線開発を推し進めることで現在の東急電鉄の基礎を築き、「西の小林」「東の五島」と称される。多くの企業を買収し、早川徳次が創業した東京地下鉄道の株式も入手し手中に収めた。昭和19(1944)年には東条内閣に運輸通信大臣として入閣もしている。

110 五島慶太書簡 昭和19(1944)年4月18日 【伊沢多喜男関係文書134

内務官僚を経て枢密顧問官になっていた伊沢多喜男に宛てた書簡。昭和19(1944)年2月19日から運輸通信大臣を務めていた五島が、4月11日付で行った運輸通信次官、通信院総裁の人事について伊沢から褒められたことへの礼状と思われる。東条内閣で内閣書記官長を務めた星野直樹は、運輸通信大臣としての五島について、在任期間は短かったものの「省内の人心をみごとに把握」したと回想している(『五島慶太の追想』)。

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