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あの人の直筆

目次
あの人の直筆第2部 近現代第2部 第2章 第2節 戦後の首相

第2部 近現代

第2章 歴代首相 2. 戦後の首相

東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみや なるひこおう) 1887-1990

政治家。第43代内閣総理大臣。敗戦直後の昭和20(1945)年8月17日に最初の皇族内閣を組織し、連合国に対する降伏文書の調印、陸海軍の解体などの終戦処理にあたったが、一方で連合国側の政策に抵抗し、歴代内閣在任最短期間の54日で総辞職した。昭和22(1947)年10月に皇族の身分を離れた後は東久邇稔彦を名乗った。首相就任後の記者会見(8月28日)で、国の再建と国内団結の第一歩として「全国民総懺悔ざんげ」の必要性を語ったことでも知られる。

84 東久邇宮稔彦王書簡 昭和7(1932)年頃【荒木貞夫関係文書21

陸軍少将の東久邇宮稔彦王から、陸軍大臣の荒木貞夫に宛てた書簡。自分の人事に関して、参謀本部ではなく満洲独立守備隊への異動を希望している。これは、当時の東久邇宮が陸軍の満蒙占領計画に寄せていた強い関心が影響したものと思われ、こうした東久邇宮の軍人としての積極的な姿勢は、陸軍内の一部に共感を得ていた。昭和20(1945)年8月14日のポツダム宣言受諾を前に、日本の首脳部が東久邇宮に首相就任の打診をしたのも、皇族の権威とそれまでの陸軍との人脈により陸軍を抑えていくことを期待してのものであった。

東久邇宮稔彦王書簡(2)

東久邇宮稔彦王書簡(1)

毛筆からペン字へ

万年筆が初めて輸入されたのは明治17(1884)年のことでした。当時は現在のような先が割れたペン型ではなく針金のようなペン先でしたが、間もなくペン型のものも登場します。日清戦争時には、船の上では毛筆よりも万年筆の方が書きやすいと重宝され、日露戦争では将校クラスには現物が支給されたそうです。また、紙に関しても、明治30年から40年代に国内での洋紙の生産量が和紙を上回ります。大正時代にはペン習字が始まり、こうして、和紙に毛筆というスタイルから、洋紙に万年筆(=ペン)というスタイルに変わっていきました。
1950年代には、就職活動における履歴書にペン字横書きを用いようという運動が東大生によってはじまり、結果としてJISの履歴書が横書きに変更されます。「毛筆でないと個性が伝わらない」という意見もありましたが、「毛筆は効率が悪い」「毛筆で書ける学生はすでにいない、代書屋に頼んでいるのが実態」という意見が大半で、すでに毛筆が一般的でなくなっていたことがわかります。
ちなみに、ボールペンについて現在のように細い管に粘度の高いインクを入れたものが開発されたのは昭和18(1943)年、ハンガリーでのことでした。


幣原喜重郎(しではら きじゅうろう) 1872-1951

外交官、政治家。外務次官、駐米大使、ワシントン軍縮会議の全権委員を歴任。大正13(1924)年以降、加藤(高明)、若槻、浜口内閣で外務大臣を務め、国際協調・中国内政不干渉の「幣原外交」を展開した。戦後は、東久邇ひがしくに内閣の後を受けて昭和20(1945)年10月に第44代内閣総理大臣に就任し、天皇制維持、新憲法草案作成などをめぐりGHQ/SCAP(連合国最高司令官総司令部)との交渉に当たる。昭和22(1947)年衆議院議員当選、昭和24(1949)年衆議院議長となるが、在任中の昭和26(1951)年死去。

85 幣原喜重郎書簡 昭和23(1948)年1月1日 【石橋湛山関係文書(その1)292

石橋湛山宛ての年賀の手紙。幣原と湛山は戦前から面識はあったが、ともに第1次吉田内閣の閣僚となり、親交を深めた。昭和22(1947)年11月、片山社会党内閣の臨時石炭鉱業管理法案に反対した幣原は、社会党と連立していた民主党を脱退、衆議院内で同志クラブを結成していた。手紙では、この行動は、ただ国政の安定を願ったものであり、「最早後退を許されさる内情」を湛山にはわかってほしいと訴える。この後、幣原は吉田茂の自由党と合流して民主自由党の結成に参画する。当時、湛山は公職追放中で、封筒にはGHQによる検閲の跡が残る。

幣原喜重郎書簡

幣原喜重郎書簡

(封筒)

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→そのほかの幣原喜重郎の直筆:掲載資料177


吉田茂(よしだ しげる) 1878-1967

政治家。第45代・第48代・第49代・第50代・第51代内閣総理大臣。外交官、政治家である牧野伸顕の娘婿。外務省に勤務し、外務次官、駐伊・駐英大使などを経て、東久邇宮内閣及び幣原内閣で外務大臣を務める。昭和21(1946)年の第1次内閣組織後、計5回総理大臣となり、その間サンフランシスコ講和条約・日米安全保障条約の締結を行った。「ワンマン」と呼ばれる個性で、引退後も政界に大きな影響力を持った。

86 吉田茂書簡 昭和22(1947)年5月3日【牧野伸顕関係文書(書簡の部)659-54 】

首相で自由党党首の吉田から、岳父である牧野伸顕に宛てた書簡。昭和22(1947)年5月3日の新憲法施行を前に、最初の国会を組織するため、4月20日に初めての参議院選挙、同25日に戦後2回目の衆議院選挙が実施された。衆院選では、いずれの政党も過半数を獲得できず、第1党となった社会党は、委員長の片山哲を首班とし、民主党および国民協同党と連立内閣を組織することとなった。選挙後、政権を渡す決意をした吉田は、「淡々たる心境にて負け振のよいところを見するか大切」と社会党が出て来やすいよう潔く退陣するつもりである旨を述べている。

→そのほかの吉田茂の直筆:掲載資料177


鳩山一郎(はとやま いちろう) 1883-1959

政治家。第52代・第53代・第54代内閣総理大臣。東京市会議員から衆議院議員となり、犬養、斎藤両内閣の文部大臣などを歴任。戦後に日本自由党を結成し総裁となるが、昭和21(1946)年組閣寸前に公職追放される。政界復帰後、日本民主党の総裁として内閣を組織。在任中に自由民主党が結成され、初代総裁となる。昭和31(1956)年に日ソ共同宣言に調印し、国交回復を実現した。

87 鳩山一郎書簡 昭和15(1940)年9月2日【安藤正純関係文書571-4

鳩山から安藤正純に宛てた書簡。昭和15(1940)年10月の大政翼賛会結成をひかえ、新体制準備会の動向が注目されていた頃の書簡である。安藤は立憲政友会幹事長も務めた政治家であったが、大政翼賛会には参加せず、昭和17(1942)年のいわゆる翼賛選挙でも鳩山とともに非推薦で立候補して当選した。この書簡では、安藤が新体制に反発する様子を「君の面目躍如として眼前に見る」と称えながらも「しかし時は必ず来る」と、今は自制も必要であることを説いている。鳩山自身は敗戦までの数年間、軽井沢で隠遁的な生活を送った。

鳩山一郎書簡

鳩山一郎書簡

鳩山一郎書簡

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