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あの人の直筆

目次
あの人の直筆第2部 近現代第2部 第9章 第2節 明治期に活躍した文芸家

第2部 近現代

第9章 文芸家 2. 明治期に活躍した文芸家

福地桜痴(ふくち おうち) 1841-1906

ジャーナリスト、劇作家、小説家。本名は源一郎。はじめ通訳として江戸幕府に出仕し、明治維新後、一時大蔵省に入ったが、明治7(1874)年に東京日日新聞主筆となり、その後社長になる。言論界では政府系新聞記者として大きな影響力を持った。明治21(1888)年に新聞社を退社。翌年、演劇改良の見地から歌舞伎座を創設。立作者として歌舞伎脚本を多く執筆した。代表的著書に『幕府衰亡論』がある。

133 滑稽化物邸  明治27(1894)年 【本別3-72

明治27(1894)年7月、東京・歌舞伎座初演の『滑稽化物邸』の脚本。『歌舞伎年表』第7巻にはこの脚本について「其筋の許可なきにより「滑稽涼幻燈」と改む。」とあり、公演時に題名が変更されたことが分かる。『近世劇壇史 第1(歌舞伎座篇)』には趣向や文句も削減されたとの記載もあり、当時の政治家を風刺する内容であることから上演前に何らかの差し支えが生じたものかと想像されるが、その間の事情は判然としない。


坪内逍遥(つぼうち しょうよう) 1859-1935

文学者。本名は雄蔵。東京大学卒業後、東京専門学校(のちの早稲田大学)の講師、のちに教授となる。日本最初の近代的文学論『小説神髄』とその実践となる小説『当世書生気質』を著し、文壇の中心的存在となった。新劇運動を弟子の島村抱月らとともに始め、俳優養成にも尽力。昭和3(1928)年には翻訳によるシェークスピア全集を完成させた。

134 坪内逍遥書簡〔明治後期〕 【副島八十六関係文書30-1

逍遥が、当時、大隈重信企画・編纂『開国五十年史』の編集を務めていた副島八十六宛に提出した原稿と送り状。明治41(1908)年に刊行された『開国五十年史』の下巻をみると、「国劇小史」の項の執筆担当者が逍遥で、この原稿がそのまま掲載されていることが確認できる。おそらく副島は、九代目市川団十郎と五代目尾上菊五郎の二大役者の肖像写真ページの解説を逍遥に追加で依頼、逍遥は送られてきた写真ページの見本刷りを見ながら原稿を書き上げ、書き込みをいれた写真ページとともに返送したものと推定される。副島は南洋問題の専門家として活動する一方、芸能や文学にも関心が高かった。

(同封の原稿)

(同封の原稿)

坪内逍遥書簡(送り状)


尾崎紅葉(おざき こうよう) 1867-1903

小説家。大学予備門在学中に硯友社を結成。明治23(1890)年帝国大学を中退、創作に専念する。代表作は『多情多恨』、『金色夜叉』など。37歳の若さで没するが、明治文壇の大家として、泉鏡花徳田秋声など多くの門人を育てた。江戸っ子気質の親分肌で、友人、門弟らによく好かれたという。

泉鏡花(いずみ きょうか) 1873-1939

小説家。明治23(1890)年に尾崎紅葉の小説を読んで作家になることを志し、翌年、19歳で玄関番として紅葉宅に住み込む。父親が死去し、経済的に困窮した際にも紅葉に励まされて執筆を続けたという。紅葉が亡くなった際には弔辞を書き、それ以降も師の追憶談を幾度か発表している。代表作は『高野聖』、『歌行燈』など。

135 此ぬし〔明治23(1890)年〕【WA22-2

紅葉自筆原稿の一部と、鏡花の識語(写本・刊本などで、本文のあと、または前に、書写・入手の由来や年月などを記したもの)。『此ぬし』は明治23(1890)年、『新作十二番』という叢書の2冊目として春陽堂から刊行された。この年、紅葉はまだ帝国大学の学生であり、試験前の7日間程で原稿を書き上げたという。この時の「試験の結果は余りよくなかッた」と後年回顧している(紅葉「作家苦心談(其七)」明治30(1897)年)。
鏡花は、『此ぬし』が書かれた翌年に紅葉に弟子入りした。紅葉の死から16年後の、大正8(1919)年6月付の鏡花の識語からは、師への深い思慕が感じられる。


幸田露伴(こうだ ろはん) 1867-1947

小説家、随筆家。明治22(1889)年『露団々』を発表し、文壇に登場した。明治20年代の文壇で尾崎紅葉と並び称せられ、「紅露時代」と呼ばれる一時代を築いた。ともに新時代の小説の文体を創造することを目指して江戸文学に学び、井原西鶴の再評価につながったともいわれる。小説のほか史伝や随筆、考証の領域でも評価が高い。

136 西鶴置土産 井原西鶴作 〔明治35-36(1902-1903)年頃〕 【W97-8

西鶴文粋さいかくぶんすい』下巻所収『西鶴置土産』の原稿。紅葉・露伴共編の『西鶴文粋』は、井原西鶴の諸作品を抜粋したシリーズ。掲載資料では、版本どおり筆写させた原稿に、紅葉と露伴が朱筆でかなを漢字に直すなどの指示を書き入れている。『西鶴置土産』の全15章から7章を選び、紅葉が3章分、露伴が4章分を担当した。掲載箇所の右丁が紅葉、左丁が露伴の担当分である。『西鶴文粋』下巻が刊行されたのは紅葉没後の明治38(1905)年である。

西鶴置土産(左丁の右上に〇露の記載がある)


山田美妙(やまだ びみょう) 1868-1910

小説家。尾崎紅葉らと共に硯友社を結成。代表作『武蔵野』などを発表し、二葉亭四迷と並んで言文一致体小説の先駆者とされる。のちに紅葉と反目し、硯友社を去る。20歳前後で文壇の寵児となったが、晩年は認められず不遇であった。歴史小説に佳作が多い。

137 白拍子祇王【本別3-67

自筆原稿。美妙の生前には出版されず、昭和9(1934)年に『祇王ぎおう』の書名で刊行された。執筆時期は明らかではないが、晩年の作ではないかと考えられている。美妙には、『平清盛』『平重衡』など、平家の人々を題材とした歴史小説がいくつかあり、高い評価を得ている。この『白拍子祇王』も、清盛の寵愛を受けた祇王という白拍子(平安時代末に多く見られた男装の遊女)と清盛の周辺を描いた作品。冒頭で美妙は、清盛のことを「凝り性」で「飽き易」く、「情に脆い」、「要するに一個可憐の正直物である。」と評している。


正岡子規(まさおか しき) 1867-1902

俳人、歌人。本名は常規つねのり。第一高等中学校にて夏目漱石と親交を深める。帝国大学を中退後、日本新聞社に入社。新聞『日本』に連載した「獺祭だっさい書屋俳話」、「歌よみに与ふる書」で俳句・短歌の革新運動を興した。7年間の病床生活の末、36歳で息を引き取る。

138 俳諧十六家 明治26(1893)年【WB12-23

子規を中心とする俳人16人の代表句を子規が書き、各俳人の肖像を下村為山しもむらいざん(牛伴)が描いたもの。子規が選んだ句は一人につき4句、春夏秋冬の句となっている。為山は子規と同じ松山出身の友人。のち、俳画の画家として大成する(俳画は、俳味のある、略筆の淡彩もしくは墨絵)。
掲載箇所は、左頁に為山画の子規肖像、右頁には、子規の友人である当時19歳の高浜虚子たかはまきょしの句が子規の筆で書かれている。

139 子規手製俳句カルタ【WB41-55

子規が100人の俳人の作品から各1句ずつを選んでつくった俳句カルタ。同郷の友人である河東碧梧桐かわひがしへきごとうの回想によると、制作は明治27、8(1894、 5)年頃で、子規の母と妹のりつ薬袋紙やくたいしを貼って作った札に、子規が句を書いたという(『子規居士真筆俳句歌留多帖』【158-118-77】。
遊び方は、百人一首のように、読み手が読んだ句の札を取るが、和歌と違って上の句・下の句がないため、読まれた句そのものが書かれた札を取ることになる。この遊び方はあまり面白くなかったのか、「この歌留多をひろげたことは甚だ稀であつた」らしい(同前)。

子規手製俳句カルタ(月居)

子規手製俳句カルタ(正秀)

子規手製俳句カルタ(はせを)

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夏目漱石(なつめ そうせき) 1867-1916

小説家。本名は金之助。明治22(1889)年頃より正岡子規と交際し、互いの創作を批評し合うなどして親交を深めた。帝国大学卒業後、英語教師となり、英国へ留学。帰国後、東京帝国大学講師を務めながら小説を発表した。明治40(1907)年朝日新聞社に入社。『行人』、『こゝろ』(初出時は『心』)などの名作を次々と新聞に連載した。

140 漱石書簡 〔明治25(1892)年〕【本別3-85

漱石から正岡子規へ宛てた葉書。明治25(1892)年6月19日消印。この頃2人は帝国大学に在学していた。漱石は、哲学の試験が済んだことに触れ、「君の平生点があれだから困る訳だけれど」、「後から受る事も出来るだらう」から教師に談判するように、と成績の悪かった子規に追試験を受けることを勧めている。しかし、子規は追試験を受けず、学年試験に落第して退学した。後年、子規は随筆「墨汁一滴」(明治34(1901)年)で当時を回顧して、試験準備を始めるとしきりに俳句が浮かんでくるので、いつも試験はそっちのけになった、と書いている。

漱石書簡(本文)

漱石書簡(宛名面)

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141 夏目漱石真蹟俳稿 明治29(1896)年9月25日 【本別3-61

漱石が正岡子規 に送った句稿。漱石は4月に熊本の第五高等学校に赴任、6月に結婚しており、本句稿には9月初め妻とともに約1週間北九州を旅行した折の句などが収められる。巻末の「愚陀」は漱石の署名。子規は朱で丸を付すなどし、巻末に「子規妄圏」と記している。「長けれど何の糸瓜へちまとさがりけり」の句は、子規が「明治二十九年の俳句界(廿一)」(明治30(1897)年3月7日、新聞『日本』掲載)において漱石の「滑稽思想」の例としたもの。漱石は、子規没後に出版した『吾輩ハ猫デアル』中編の序で、この句を子規に捧げている。


島崎藤村(しまざき とうそん) 1872-1943

詩人、小説家。本名は春樹。北村透谷らと『文学界』を創刊。詩集『若菜集』により浪漫主義詩人として出発したが、長野県小諸町にあった私塾の小諸義塾に赴任したころから小説が中心となり、『破戒』は自然主義小説の先駆となった。その他の代表作は『春』、『家』、『新生』、『夜明け前』など。

142 島崎藤村書簡 明治44(1911)年5月27日【立川雲平関係文書1-7

明治時代に長野を地盤として活躍した民権政治家立川雲平宛に藤村が送った書簡。立川は藤村の『破戒』に登場する市村代議士のモデルといわれている。書簡の中で藤村は、共通の知人である長野の小諸義塾の関係者たちの消息について触れている。小諸義塾とは、藤村の恩師であった木村熊二牧師によって開かれた私塾で、書簡の中で木村は「木村老師」と呼ばれている。藤村は木村に招へいされて同塾の英語・国語の教師として過ごした明治32(1899)年からの6年間に代表作『破戒』や『千曲川のスケッチ』を起稿した。

島崎藤村書簡


高浜虚子(たかはま きょし) 1874-1959

俳人。本名は清。松山の伊予尋常中学校の同級生であった俳人の河東碧梧桐を介して正岡子規を知り、師事した。のちに『ホトトギス』を主宰し、多くの俳人を輩出した。俳句の「有季定型」(季語と定型を守る)の理念を重視し、客観写生、また花鳥諷詠を俳句の真髄として主張した。

143 高浜虚子書簡 昭和13(1938)年5月25日 【永田秀次郎・亮一関係文書388-13

東京市長も務めた官僚政治家の永田秀次郎に宛てた葉書。永田は俳人としては青嵐と号し、虚子と親しかった。永田が松山を訪問したことは、当地の虚子門下の俳人酒井黙禅(和太郎、松山赤十字病院長)からの手紙ですでに知っていたとあり、『ホトトギス』ネットワークの緊密さがうかがえる。末尾には、「一寸新潟佐渡へ行って来ました」という一文とともに一句添えられている。句に詠まれた「御陵」とは、承久の乱に敗れて佐渡に配流となった順徳天皇の真野御陵と思われる。

高浜虚子書簡(本文)

(宛名面)

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