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あの人の直筆

目次
あの人の直筆第2部 近現代第2部 第8章 学者 第2節 人文科学

第2部 近現代

第8章 学者 2. 人文科学

大槻文彦(おおつき ふみひこ) 1847-1928

国語学者。日本初の近代的国語辞書『言海』の著者。父は儒学者の大槻磐渓ばんけい、祖父は蘭学者の大槻玄沢という学者の家系に生まれる。明治8(1875)年、文部省の命を受け、国語辞書の編纂に取り組むが、完成した原稿は文部省からは刊行されず、明治22(1889)年から24(1891)年にかけて自費で『言海』4分冊の刊行を成し遂げた。その後も、語の収集や語源の研究に努めたが、『言海』の増補改訂版となる『大言海』執筆中に没した。

123 東京須覧具(とうきょうすらんぐ) 〔明治-大正時代〕 【W57-29

自筆の語彙集。「須覧具」(Slang)という書名のとおり、東京周辺で用いられる俗語、職業語など約2,700語を収録している。行頭に見出し語を記し、その下に品詞、意味、語源などを書き添える。大槻は『言海』刊行途中の明治23(1890)年にこの語彙集を起稿し、その後20年以上にわたって編集を続けた。本書の収録語は、大槻の没後に刊行された『大言海』にも多く採用されており、編纂の際に基礎資料として活用されたと推測される。


内藤湖南(ないとう こなん) 1866-1934

東洋史学者。名は虎次郎。秋田県出身。秋田師範学校卒業後上京し、ジャーナリストとして活躍。中国、満洲にしばしば赴いて学術調査を行った。明治40(1907)年京都帝国大学講師となり、のち教授。その広範な東洋学を体系化した。日本史にも業績があり、近世の学者として富永仲基なかもと、三浦梅園、山片蟠桃やまがたばんとうを評価するなど、卓抜な識見を示した。明治文壇の評論家、書家としても有名。

124 翁の文 富永仲基著 富士屋長兵衛刊 延享3(1746)年【WB1-4

江戸中期の思想家富永仲基の代表的著作。かなで書かれ、庶民向けに、神儒仏よりもさらに大切な誠の道を説いている。亀田次郎が大正13(1924)年に入手して初めて伝存が判明し、新聞などにも報じられた。掲載箇所は、この亀田発見本に書かれた内藤による跋文。30余年探していた本書発見の報に「驚喜」し、すぐに「玻璃板」(コロタイプ印刷)で複製本を作った経緯などを、風格のある文字で記す。文中の「吟風」は亀田の号。発見の報は、当時、亀田が国語学を教えていた大阪外国語学校の蒙古語部にいた石浜純太郎(東洋学者)が、内藤に伝えたようで、「拝借出来候へば可成なるべく早急に願いたく」と内藤の興奮した様子がうかがえる書簡が残る(大正13(1924)年1月23日付石浜宛書簡。当館は亀田による写しを所蔵)。

翁の文(内藤による跋文)


亀田次郎(かめだ じろう) 1876-1944

国語学者。兵庫県出身。東京帝国大学卒業後、国語調査委員会嘱託となり「音韻調査報告書」「口語法調査報告書」など、標準語制定のための調査・編纂事業に携わる。のち第七高等学校(のちの鹿児島大学)、大阪外国語学校、大谷大学などの教授を歴任。古辞書や韻書の研究、西洋人による日本語研究などに業績を残した。室町時代から明治までの系統的な「節用集」(通俗辞書)コレクションを含む亀田旧蔵書6,900冊は、金田一京助らの斡旋で亀田文庫として当館の蔵書となっている。掲載資料179183も亀田旧蔵書である。

125 御国辞活用鏡みくにことばかつようかがみ2巻 本居宣長著 亀田次郎写 明治37(1904)年【815.4-M8932m2

19歳の亀田が帝国図書館所蔵本(124関連資料)を書写したもの。巻末の書写奥書に「帝国図書館所蔵の古写本によりこれを謄写す」とある。字配り、行間もまったく同じで、親本の上に紙を置いて透き写ししたものか。親本と写本とが共に当館の蔵書となったのも奇縁といえよう。本書は「活用言の冊子」「言語活用抄」「御国詞活用抄」ともいい、日本語の活用について記したもの。なお、亀田旧蔵書の中には東京帝国大学所蔵本を写した『御国詞活用抄』もあり、朱字で帝国図書館本、青字で小田清雄編活字本(明治19(1886)年刊)との校合を書き入れており、勉強ぶりが偲ばれる。

亀田次郎写『御国辞活用鏡』下巻の奥書

125関連資料:御国辞活用鏡2巻 本居宣長著 〔江戸時代〕写【126-13

『御国辞活用鏡』下巻の巻末

「写す」ということ―コピー機がない時代はどうしてた?

印刷技術が普及していない時代、本は手で写すものでした。江戸時代に木版印刷による商業出版が盛んになっても手で写すという習慣は続き、手に入りにくいもの、流通させたくないものを、手で写して複製していました。学者たちは貴重な本を借りては写し、借りては写して勉強したものです。福沢諭吉の『福翁自伝』には、適塾の生徒たちが大名からの依頼で蘭和辞書を写してアルバイト代を稼いでいたことが記されています。
そうした感覚は、近代に至っても続きました。亀田次郎は明治37(1904)年、当館の前身である帝国図書館の閲覧室で筆写を行っています。今のような電子式のコピー機が発売されたのは1950年代のことで、当館で電子式の複写業務を開始したのは昭和38(1963)年4月のことでした。

岡田希雄(おかだ まれお) 1898-1943

国語・国文学者。名は「よしお」とも。僧名は「きゆう」。和歌史や音義・古辞書の研究に業績を残した。京都帝国大学に学び、立命館大学教授になったが間もなく休職、46歳で逝去した。青年時以来、病魔と闘う中で学問に専心、その研究・考証は「微に入り細を穿ちて、周到精査を極め」と評されている(遺著『類聚名義抄の研究』の新村出による序文)。蔵書家としても知られ、旧蔵書約1,400冊は陸軍予科士官学校を経て当館の蔵書となっている。

126 花みつ2巻 岡田希雄写 大正7(1918)年【わ913.4-6

京都帝国大学所蔵の奈良絵本(御伽草子などに彩色の挿絵を入れた古写本)を当時21歳の岡田が写したもの。奥書には「以流行性感冒勢猖獗之故大学休学也」とあり、スペインかぜ(この年から翌年にかけて世界中で数千万人が死亡したインフルエンザの大流行)で大学が休校になり、その間に写したことがわかる。原本のままに写したが、その真は写し得ていないと惜しんでいる。『花みつ』は室町時代成立の御伽草子で、異母兄弟花みつ・月みつの悲劇の物語。

花みつ(下巻の奥書)

花みつ(上巻の挿絵)


西田幾多郎(にしだ きたろう) 1870-1945

哲学者。東京帝国大学で哲学を学び、金沢の第四高等学校の教授などを務めた後、大正2(1913)年から昭和3(1928)年にかけて京都帝国大学教授を務めた。『善の研究』(明治44(1911)年)の出版以後、次々に論文を発表、西田哲学とよばれる独自の哲学体系を構築した。京都帝国大学をはじめ、戦前・戦中の日本の思想界に大きな影響を及ぼした。

127 西田幾多郎書簡 昭和17(1942)年2月22日 【原田熊雄関係文書67】

宛先の原田熊雄(貴族院議員)は、最後の元老といわれる西園寺公望の秘書を長年務めた人物である。京都帝国大学教授だった西田は、同大学の卒業生である原田とは旧知の仲であった。西田の書簡は返信であり、おそらく原田からの来信には、当時快進撃を続けていた海軍の今後の展開に関する内容が書かれていたと推測される。それに対して西田は「しかし春になつて北はいかん。欧洲の方も知り難きものなきにあらす。」と、楽観できないのではないかとの疑問と、かすかな不安を伝えている。西田は日本の敗戦をみることなく昭和20(1945)年6月に死去した。

西田幾多郎書簡

(封筒)

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和辻哲郎(わつじ てつろう) 1889-1960

哲学者、倫理学者。東京帝国大学哲学科に在学中、谷崎潤一郎らと第2次『新思潮』の同人となる。ニーチェ、キルケゴールから、仏教美術、日本思想史へと関心を広げていった。夏目漱石の木曜会に出入りし、雑誌『思想』の編集にも参加。昭和6(1931)年京都帝国大学教授。同9(1934)年東京帝国大学教授。『ニイチェ研究』、『倫理学』のほか、『古寺巡礼』、『風土』、『日本芸術史研究』など文化史研究にも業績をのこす。当館には照夫人によって自筆原稿など82点が寄贈されている。

128 日本古代文化 新稿 〔昭和26(1951)年〕【WB12-70

『日本古代文化』の最後の改訂となった新稿版の原稿。大正9(1920)年に初版、大正14(1925)年に改訂版、昭和14(1939)年改稿版と改訂を重ねていた。改稿版の序には「この書を書き上げた時ほど嬉しかつたことは一度もない」とあり、長年にわたって改訂し続けた愛着が偲ばれる。掲載資料は、1つ前の版である改稿版のページそのものに細かな修正を加えているほか、大幅な修正は「別紙」として原稿用紙に書き、挿入箇所を指示している。こうしてできあがった新稿版について和辻は、「極めて少しづゝではあるが、前に解らなかった箇所を明かにし得たと思ふ」(新稿版序)と謙虚に喜びを語っている。


柳田国男(やなぎた くにお) 1875-1962

民俗学者。東京帝国大学法科大学卒業後、農商務省に入り、法制局参事官や貴族院書記官長となった。大正8(1919)年に官界を離れてからは、朝日新聞社や国際連盟などの仕事に携わりつつ、国内を旅行して各地の民俗など知見を広げた。戦後は枢密顧問官に選任され、廃院まで務めた。幼少期の飢饉の体験から農政を志し、官吏として日本各地を視察のために歩くうちに、その土地特有の文化や風習に関心を寄せるようになり、やがて民俗学という新しい学問分野を切り拓いていくことになった。『遠野物語』『蝸牛考』ほか多数の著作を残す。

129 柳田国男葉書 昭和23(1948)年1月9日 【松本烝治関係文書282

商法学者の松本烝治に宛てた写真入り葉書。松本は幣原内閣の国務大臣として憲法改正案の「松本案」の作成を主導した。柳田と松本は第一高等学校以来の親友で、農商務省同期入省の間柄。老境に入った旧友どうしのいたわりがにじむ。柳田は、自身の写った何種類もの特製写真入り葉書を各地の民俗学関係者にも送っていた。ここに写っている柳田邸の書斎は、まるで小さな図書館のようだったという。

柳田国男葉書(裏)

柳田国男葉書(表)

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GHQ/SCAPの郵便検閲

GHQは、昭和20(1945)年9月から昭和24(1949)年10月まで、郵便や電話の検閲を行いました。これらは、占領政策を円滑に実施するために、日本人の意識を調査する世論調査を兼ねた諜報活動でした。
柳田の葉書(掲載資料129、画像表面)や、幣原の封筒(掲載資料85、封筒画像)には、GHQが検閲したという印が残っています。柳田の葉書の宛先である松本烝治は、葉書を受け取った当時公職追放中の身であり、幣原の書簡の宛先である石橋湛山もまた、大蔵大臣としてGHQと対立した結果、公職を追放されていた時期です。
検閲は、民間諜報局(CIS)の下にある民間検閲支隊(CCD)が担当しました。CCDは、郵便のほかにも、新聞、放送、出版物、映画の検閲も行っていました。
印の「C.C.D.」に続く「J」は日本人検閲官が担当したことを示し、その後の番号は個々の検閲官を示しています。

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