目次
第2部 近現代
第11章 力士
常陸山谷右衛門(ひたちやま たにえもん) 1874-1922
第19代横綱。茨城県出身、出羽ノ海部屋。中学3年のとき出羽海部屋に入門。明治36(1903)年6月、好敵手の梅ヶ谷藤太郎(第20代横綱)とともに横綱を免許されると、「梅・常陸時代」といわれる空前の相撲興隆期を築いた。明治40(1907)年8月から翌3月にかけ欧米を外遊。大正3(1914)年引退。
163 常陸山谷右衛門書簡 明治40(1907)年1月17日 【松井茂関係文書267】
韓国統監府の釜山理事庁理事官を務める松井茂に宛てた書簡。韓国巡業のために常陸山が派遣した視察者を厚遇してくれたことへの礼を述べ、視察に同行できなかった理由として「合併之相談」が持ち込まれたと書いている。「合併」とは、当時頻繁に開催されていた東京と京阪などの相撲協会による合併興行のことかと思われる。常陸山は追々自分も渡韓したいという希望を述べており、明治43(1910)年、東京相撲協会による初めての韓国巡業でそれが実現する。
常陸山谷右衛門書簡
太刀山峯右衛門(たちやま みねえもん) 1877-1941
第22代横綱。富山県出身、友綱部屋。常陸山・梅ヶ谷後の角界の第一人者として、無敵を誇った。1敗を挟んで43連勝と56連勝を記録、この間に大関から横綱に昇進する。得意の型は突き押しで、ひと突き半で相手を倒すといわれ、「四十五日」(=一月半)の異名を取った。大正7(1918)年引退。
164 太刀山峯右衛門書簡 明治39(1906)年8月9日 【豊川良平関係文書261-2】
後援者の豊川良平に宛てた書簡と考えられる。太刀山は当時関脇として地方巡業の途中で、今後の巡業予定と自らの病気が全快し土俵に復帰したことを伝えている。受取人の豊川良平は、岩崎弥太郎のいとこで、三菱財閥の有力幹部。

