目次
第2部 近現代
第2章 幕末・維新の人々 3. 旧幕臣と福沢諭吉
大鳥圭介(おおとり けいすけ) 1833-1911
幕末・明治の軍人、外交官。名は純彰で圭介は通称。蘭学や西洋兵学を学び、幕府陸軍幹部となる。戊辰戦争では、榎本武揚と合流し北海道に入ったが、五稜郭の戦いで降伏。のち明治政府に取り立てられ、工部大学校長や清国公使を歴任した。
67 流落日記 明治2(1869)年5月18日~6月30日【大鳥圭介関係文書1】
明治2(1869)年、五稜郭の戦いに敗れた榎本武揚、大鳥ら7名は、東京まで護送されたのち入獄した。この日記は、5月18日の五稜郭開城から、6月29日に千住に着くまでの大鳥による道中日記である。日付と天気、宿泊地を基本とした簡潔な記述であり、日によっては昼食場所、移動距離などが記されている。また、各宿泊地での戊辰戦争による戦禍の状況も記されており、軍人らしい目線を感じさせる。サイズは小さいながら、榎本らの護送経路を伝える貴重な史料である。
流落日記(5月18日 五稜郭開城)
流落日記(表紙)
豆知識
ペンじゃなくて筆を持ち歩いていた!?
小さな旅日記(掲載資料67大鳥圭介)が筆で書かれているのを見て、不思議に思うかもしれませんが、現在の万年筆のように、持ち歩く筆というのが存在しました。13世紀頃から使われていたと考えられている「矢立」というものです。墨壺にモグサや綿を入れて墨汁を蓄えておき、筆とセットにして持ち歩きました。もともとは武士が用い、扇形でしたが、墨壺が丸いタイプへと変化しました。商業が発達した江戸時代には、全国を行き来する商人の必需品でした。近代になってもしばらく使われていたそうです。

『自然科学と博物館』 4(9)(45) 国立科学博物館,1933.9【Z14-213】
勝海舟(かつ かいしゅう) 1823-1899
幕末・明治の幕臣、政治家。明治維新後は安芳と改称した。通称は麟太郎で海舟は号。長崎の海軍伝習所で航海術を学び、咸臨丸の艦長として太平洋を横断して渡米した。帰国後は、幕府海軍育成に尽力。戊辰戦争では、幕府側代表として西郷隆盛と会見し、江戸城無血開城を実現させた。明治維新後は、参議、海軍卿などを歴任する一方、旧幕臣の生活救済などに努めた。
68 海舟自画賛【勝海舟関係文書43】
勝が自画像に自ら賛(画に添えて書かれた詩や文)を書き添えた、自画自賛である。賛は、小事にこだわらないのは自分の気質であるから、将にもなれば卒(雑兵)にもなる、朝廷にあれば参議、在野にあれば散人となるが、いずれにしても、心持ちはさっぱりとして時世を見ているといった内容である。野にあったときの心情を書いたものと考えられるが、作成年代は不詳である。「睥睨世一」と書き損じた箇所は上から貼った紙で「睥睨一世」と修正されている。
69 勝海舟書 【杉浦譲関係文書763】
高橋泥舟(たかはし でいしゅう) 1835-1903
旧幕臣。名は政晃、通称は精一。泥舟は号。旗本の山岡正業の次男で、高橋包承の養子となった。山岡鉄舟は義弟(妹の夫)。槍術の名人と称され、講武所槍術師範などを務めた。慶応4(1868)年1月の鳥羽・伏見の戦い後は徳川慶喜の恭順を説き、2月に慶喜が江戸城を出て上野寛永寺に移った後は、その身辺の護衛にあたった。明治維新後まもなく隠棲し書を楽しんだ。
70 高橋泥舟書 【杉浦譲関係文書764】
山岡鉄舟(やまおか てっしゅう) 1836-1888
旧幕臣、剣術家、官僚。名は高歩、通称は鉄太郎。鉄舟は号。旗本の家に生まれ、幕府講武所で剣術を教えた。戊辰戦争に際しては、勝海舟の使者として駿府(静岡市)へ赴き、西郷隆盛を説いて西郷と勝の会談を実現させた。明治維新後は、明治天皇の侍従などを歴任する一方、剣術道場を開き一刀正伝無刀流を創始した。高橋泥舟の妹婿にあたる。
71 山岡鉄舟書 【杉浦譲関係文書765】
コラム 幕末の三舟
勝海舟、高橋泥舟、山岡鉄舟―共に号に「舟」の字をもつこの3人を総称して「幕末の三舟」と呼ぶことがある。
いつから誰が言い始めたのかは定かではないが、明治後期には「三舟」とは何かを解説する本が残されている(『三舟秘訣:鉄舟・海舟・泥舟』)。3人はいずれも徳川家に仕え、幕末の江戸城無血開城に功があったとされる。慶応4(1868)年3月、新政府軍の西郷隆盛と幕府側の代表となる勝の会談を実現するにあたり、まず高橋が義弟の山岡を見込み、勝の使者として西郷に会談を申し込む役に推挙した。続いて、推挙された山岡が駿府に赴き、西郷を説得して勝との会談を実現。最後に、勝が西郷と話をまとめて、江戸城の無血開城に至った。
「幕末の三舟」と類似した表現としては、明治維新で特に功績のあった西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允の3人を「明治維新の三傑」と呼ぶことがある。こうした表現が、倒幕を実現した側の歴史観から出たものであるのに対し、旧幕府側の目線で語られたのが、勝、高橋、山岡ら「幕末の三舟」の活躍ではないだろうか。
掲載した勝海舟、高橋泥舟、山岡鉄舟の直筆は、高橋、山岡と同年代であった旧幕臣杉浦譲の家に伝えられてきたものである。杉浦は幕末にパリ万博の日本代表随員として渡欧した、明治維新後は官僚として活躍した人物(関連電子展示会「日記の世界」)。
71 山岡鉄舟書
70 高橋泥舟書
69 勝海舟書
榎本武揚(えのもと たけあき) 1836-1908
幕末・明治の軍人、政治家。長崎海軍伝習所で勝海舟の指導下に航海術などを学び、次いでオランダへ留学し自然科学、法学などを学んだ。竣工した開陽丸で帰国、幕府海軍副総裁となる。戊辰戦争では箱館の五稜郭にこもり、政府軍と交戦するが降伏。特赦され、明治政府では諸大臣を歴任し、駐ロシア公使として樺太・千島交換条約を締結するなど活躍した。
72 シベリヤ日記 甲 明治11(1878)年【榎本武揚関係文書8】
榎本のシベリア横断の際の日記。榎本は特命全権公使として当時の北方領土問題を解決するためロシアに派遣され、明治8(1875)年5月、樺太・千島交換条約を締結した。榎本はそのまま初代ロシア公使として駐在し、明治11(1878)年に鉄道と馬車でシベリアを横断して帰国した。この日記はその66日間の記録である。内容はシベリアの地勢、風土、植物、政治、経済など多岐にわたる。出立日の7月26日の記述には、出発にあたり「パスポールト」(旅券)を渡されたことや、汽車の車中で貯えておいた日本酒1瓶を開けて飲んだが口に合わなかったことなどが記されている。
福沢諭吉(ふくざわ ゆきち) 1834-1901
明治時代の啓蒙思想家、教育家。大坂で緒方洪庵に蘭学を学び、江戸に蘭学塾(のちの慶応義塾)を開設した。英学を独習し、幕府の遣米使節に同行して咸臨丸で渡米するなど、3度欧米に渡った。明治維新後は教育・啓蒙活動に従事し、『時事新報』の創刊、『西洋事情』、『学問のすゝめ』、『福翁自伝』の執筆などを行った。
73 福沢諭吉書簡 明治25(1892)年2月5日【榎本武揚関係文書25-5】
福沢から榎本武揚に宛てた書簡。前月27日に送った『瘠我慢の説』(コラム参照)の草稿について、時節を見計らい世に公にするつもりのため、事実に間違いはないか答弁を求めている。これに対し当時外務大臣の職にあった榎本は、返書の中で「多忙に付いづれ其うち愚見申し述べるべく候」とのみ応じた。なお、同様に福沢から問われた勝海舟は、「行蔵(出処進退)は我に存す、毀誉は他人の主張、我に与らず我に関せず」と返書している。
福沢諭吉書簡
コラム 福沢諭吉の「瘠我慢の説」
「瘠我慢の説」は、福沢諭吉が明治24(1891)年の冬頃に執筆した文章である。旧幕臣でありながら新政府に仕えて高位に上った勝海舟と榎本武揚を批判した内容であり、福沢はこの草稿を明治25(1892)年1月末に勝と榎本に送り、答弁を求めている(掲載資料73は榎本への催促の書簡)。
同書の中で福沢は、勝が官軍と戦わずして江戸開城に到らしめたことを「我日本国民に固有する瘠我慢の大主義を破り、以て立国の根本たる士気を弛めたるの罪は遁るべからず。」と評し、それにもかかわらず維新後は「得々名利の地位」にいることを非難している。
また、榎本についても、箱館での挙兵は「武士の意気地即ち瘠我慢」と高く評価しながら、「氏が放免の後に更に青雲の志を起こし新政府の朝に立つ」ことに関しては感服致しがたいと述べている。
執筆から約10年後の明治34(1901)年正月に「瘠我慢の説」は『時事新報』に掲載され、同年5月には「丁丑公論」と共に1冊の本に合本されて時事新報社から出版された。(『明治十年丁丑公論・痩我慢の説』【304-H826m】


