目次
第3部 いろいろな直筆
第1章 絵画
当館では、文字を中心とした直筆資料だけでなく、絵画も所蔵している。ここではその中から、それぞれの分野で名を成した人々の作品9点を選んで紹介する。日本画、油彩画、絵日記、下絵など、多様な肉筆画をお楽しみいただきたい。
谷文晁(たに ぶんちょう) 1763-1840
江戸時代後期の画家。狩野派をはじめ、南画から洋風画まで様々な画法を学び、諸派を融合させた画風により江戸画壇に重きをなした。門下から渡辺崋山、田能村竹田ら優れた画家を輩出している。また、天明8(1788)年、田安家に出仕し、寛政4(1792)年には松平定信に認められ、近習(主君のそば近く仕える役)になっている。
168 桜草図【特1-3292】
文晁が描いた桜草の絵に、屋代弘賢が賛(絵に添えられる詩歌など)を書いたもの。屋代は江戸時代後期の国学者で、文晁と同じく松平定信に取り立てられ、また、能書家としても知られた。絵の描かれた時期は明らかではないが、文晁の落款は、いわゆる烏文晁と呼ばれる文化年間(1804-1818)以降のものである(「文」の字が崩れて烏の形に似てくることからこのように呼ばれ、それ以前と区別されている)。
屋代の賛は、「くさの名も桜といへは日本にかきる色香の盛みすらし」。桜草の美しさを称える和歌である。
長谷川雪旦(はせがわ せったん) 1778-1843
江戸後期の画家。名は宗秀。長谷川雪嶺に師事し、長谷川を画姓とした。町絵師として活動していたが、唐津藩お抱え絵師となり、文政元(1818)年、藩主小笠原長昌(おがさわら ながまさ)に従い、江戸から唐津へ向かった。斎藤月岑の『江戸名所図会(ずえ)』(掲載資料24の関連資料)の挿絵画家としても名高い。
169 西国写生 〔文政元(1818)年〕 【本別18-9】
雪旦が江戸から唐津へ向かう道中の風景や長崎出島のオランダ商館の様子を描いたスケッチ集である。ほぼすべてが遠景で、『江戸名所図会』にも見られる俯瞰的な構図も多い。
画像1は厳嶋(=厳島)をパノラマ的に描いたもの。画面中央、厳嶋と対岸の本州との間に「此間は少し長く」とある。写真のない時代、スケッチと文字で記録することで、何かの機会にまた利用できるようにしたのだろうか。
画像2は長崎出島のオランダ商館の図。画面奥でオランダ人が玉突き(ビリヤード)をしている。玉突きをする人々や台上の様子だけでなく、台の下のボールが入るポケットに取り付けられた袋にも注目している。
画像1 〔西国写生〕 第1帖(厳嶋)
画像2 〔西国写生〕 第2帖(長崎出島のオランダ商館)
歌川豊国(3代目)(うたがわ とよくに 3だいめ) 1786-1864
170 姿見早稽古 〔江戸後期〕 【本別7-570】
各半丁に一人ずつ、幕末期の歌舞伎役者28人の似顔絵半身像を墨書きのラフスケッチ風に描き、芭蕉・其角らの発句を添えた役者絵本の稿本。刊本の存在は確認できず、刊行はされなかったと思われる。絵師名はないが、東風社梅彦の序に「亀戸の画叟」とあるので、「亀戸豊国」と呼ばれた3代目歌川豊国と推定される。嘉永7(1854)年8月の舞台に取材した絵がもっとも多いことから、おそらくその頃に制作されたものであろう。役者名は記されないが、特徴をよくつかんだ似顔絵で描かれている。
河鍋暁斎(かわなべ きょうさい) 1831-1889
日本画家。6歳で浮世絵師歌川国芳に入門したのち、前村洞和、狩野洞白の門に移り、19歳で狩野派の免許を得た。安政年間末頃より浮世絵を描き、狂斎と号したが、風刺画のために投獄されたのを機に暁斎と改めた。ユーモアあふれる筆使いと、卓越した描写力とを持つ絵師で、国外でも高く評価されている。
171 暁斎絵日記 明治9(1876)~21(1888)年【WA31-14】
暁斎は明治初年から亡くなる1か月前まで、毎日絵日記をつけていた。内容は、日々の来客や絵の制作、出稽古の様子などで、軽妙な筆致は見ていて飽きない。この絵日記は当時から評判が高く、暁斎が描いた端から知人たちが持ち去ってしまうので、河鍋家には遂に1冊の日記も残らなかったという。掲載箇所中、赤い鬼は経師屋(書画を掛物などに仕立てる職人)の高須平吉。顔が鬼に似ていたのだろうか。右頁には、椅子に座って長い足を持て余すように伸ばしたコンドルが描かれている。イギリス人建築家のジョサイア・コンドルは、明治14(1881)年に暁斎に弟子入りし、暁英と号した。
水野年方(みずの としかた) 1866-1908
浮世絵師、日本画家。明治期風俗画の代表作家とされる。14歳で浮世絵師月岡芳年に入門。新聞・雑誌の挿絵画家として活躍する傍ら、肉筆歴史画も手掛け、近代日本画壇に浮世絵派を形成した。繊細で上品な作風に特徴がある。弟子に鏑木清方がいる。
172 水野年方三十六佳撰下絵【寄別13-35】
『三十六佳撰』は大判錦絵36枚の揃物で、年方の代表作。1枚ごとに「元禄頃婦人」「文政頃婦人」というように、主に江戸時代の元号を冠して、その頃の女性の風俗(衣装、髪型など)を季節の風物を添えて描いた美人画シリーズである。年方は風俗考証を丁寧に行った画家としても知られており、このシリーズはそうした年方の特色がよく生かされた作品と言える。年方旧蔵の下絵の右下には、「水野秊方所蔵之印」という蔵書印が押されている(「秊」=「年」)。関連資料は出版された錦絵。年方の作品らしく、品のある美人画となっている。
水野年方三十六佳撰下絵 (茶の湯 宝永頃婦人)
172関連資料:三十六佳撰 秋山武右衛門刊 明治26(1893)年【本別7-292】
三十六佳撰(茶の湯 宝永頃婦人)
川瀬巴水(かわせ はすい) 1883-1957
版画家。鏑木清方に弟子入りを希望するが断られ、清方の勧めで洋画を学んだ。のち、再び入門を願い、27歳でようやく清方門下となる。大正7(1918)年、伊東深水の木版画に感銘を受け、自らも版画作品を発表。以降、日本各地を旅行して写生を繰り返し、その写生画を元とした風景版画で多くの名作を生み出した。情感豊かな風景描写に定評がある。
173 伊予川之江 昭和9(1934)年【寄別7-3-1-7】
水彩画。絵の左下に「巴水/伊予 川之江/昭和九.一.二十八写」とある。愛媛県の東端、旧川之江市(現四国中央市)の風景を描いたもの。巴水は昭和9(1934)年1月から2月にかけて四国、関西を旅行しており、ほぼ同じ構図のスケッチが当時の写生帖(個人蔵)に残されている。この旅での写生画を元に、『日本風景集II 関西篇』という版画シリーズが出版されたが、掲載資料の絵柄は版画作品にはなっていない。
巴水は版画に生きた画家であったが、時には注文に応じて、あるいは経済的な事情により肉筆画も描いた。当館は他に巴水の水彩画を11点所蔵する。
174 東海道薩埵峠 昭和10(1935)年【寄別7-3-1-7】
水彩画。絵の左下に「東海道さた峠/昭和十年二月作/巴水」とある。昭和10(1935)年4月に出版された版画『薩埵峠の富士』とほぼ同じ絵柄であるが、掲載資料には署名、印章とも入っており、原画ではなく独立した水彩画作品として描かれたものと思われる。薩埵峠は静岡県にある峠で、東海道の難所であると同時に名勝地としても知られた。歌川広重も『東海道五拾三次』で同所を描いている。
浅井忠(あさい ちゅう) 1856-1907
洋画家。明治9(1876)年、創設直後の工部美術学校へ入学、イタリア人画家フォンタネージの薫陶を受けた。日本最初の洋画美術団体である明治美術会を同志と設立し、東京美術学校教授を経て、明治33(1900)年より2年間フランスへ留学。帰国後は京都に移住し、関西画壇の指導者として功績を残した。フランス留学中に描いた「グレーの冬」などの風景画が著名である。
175 浅井忠画帖【寄別3-1-2-1】
浅井の水彩画11点を貼り込んで折本仕立てにしたもの。11点のうち9点は絹布に、2点は紙に描かれている。どの絵も、どちらかというと簡略な筆使いで、軽やかな仕上がりになっている。描かれた時期は不明だが、農村風景や人々の暮らしの様子を描いている点に浅井らしさが窺える。浅井は油彩だけでなく、水彩も得意とした画家で、晩年には特に水彩画を多く描いた。日本に洋風の水彩技法がもたらされたのは、幕末から明治初期にかけてであるが、浅井は初期の日本水彩画の代表作家で、水彩画の手引なども執筆している。
狩野芳崖(かのう ほうがい) 1828-1888
日本画家。長府藩(山口県)御用絵師の家に生まれる。狩野派に学んだが、伝統の枠に捉われることなく独創性を追求した。芳崖という号は、「法外(定まった法にはずれること)」の意味を込めてつけたといわれる。フェノロサに認められ、岡倉天心とともに日本画の改革に力を尽くした。絶筆「悲母観音」は近代日本画の代表作として名高い。
176 瀑布之図 〔明治20(1887)年〕【WA47-4】
右下に「芳崖/年六十畫」の落款があり、明治20(1887)年の作品である。芳崖はこの年から、絶筆となった大作「悲母観音」の制作にとりかかっている。翌年には東京美術学校教官となったが、開校を前に11月5日逝去した。芳崖には、他にも「懸崖山水図」、「岩石」など、切り立った崖や岩石、渓流などを題材とした作品がいくつか残されている。
瀑布之図

