目次
第2部 近現代
第4章 社会運動家
石原莞爾(いしはら かんじ) 1889-1949
陸軍軍人。大正7(1918)年陸軍大学校卒業。昭和3(1928)年関東軍参謀、昭和6(1931)年満洲事変を引き起こし、翌年の満洲国設立に至る事態を主導する。昭和10(1935)年参謀本部作戦課長、翌年戦争指導課長として、石原独自の最終戦争論を背景に軍事政策を立案。昭和12(1937)年に作戦部長に就任したが、日中戦争の拡大に反対し東條英機と対立、関東軍参謀副長に転出。昭和14(1939)年陸軍中将・第16師団長を最後に昭和16(1941)年予備役編入。この前後から東亜聯盟運動に力を注ぐ。
94 石原莞爾書簡 昭和15(1940)年4月2日 【憲政資料室収集文書244-5】
右翼活動家の児玉誉士夫に宛てた返信。文中に登場する、石原が児玉に紹介したとおぼしき「熱血之国士辻君」とは陸軍少佐辻政信であろうと推察される。当時の石原は第16師団長を務めるかたわら、日本・中国・満洲の国家共同体建設を主唱する東亜聯盟協会の活動に熱心に取り組んでいた。石原が感謝する児玉の「御活動」と、辻が「全生命を捧くるもの」と石原が確信していることは、この東亜聯盟協会に関わることかもしれない。
石原莞爾書簡(宛名部分、本文末尾)
石原莞爾書簡(宛名裏、本文冒頭)
豆知識
封緘葉書(ふうかんはがき)
石原莞爾の書簡(掲載資料94)は、見慣れない形態です。これは「封緘葉書」と呼ばれるもので、郵便局で売られている、葉書大の紙が3面連なったものに直接通信文を書きます。これを畳むように内側に折って封をして送ります。
封緘葉書は明治33(1900)年の郵便法で制定されました。料金は封書と同じでしたが、便箋と封筒、切手が一体となっている簡便さから、旅先での使用に適していました。石原はこの書簡中に「只今演習地にて…」と書いています。また、当館所蔵のほかの石原書簡でも封緘葉書は使われているので、愛用していたのかもしれません。
その後、封緘葉書は「切手付き封筒」「簡易てがみ」と名前が変わり、現在は「郵便書簡」(通称「ミニレター」)といいます。昭和56(1981)年からは封書よりも安い料金設定になり、簡便さだけでなく安価であることもその特徴となっています。
幸徳秋水(こうとく しゅうすい) 1871-1911
ジャーナリスト、社会主義者。本名は伝次郎。秋水は中江兆民から与えられた号。明治21(1888)年に大阪で中江兆民の知遇を得、書生となる。明治31(1898)年からは『萬朝報』の記者となり、言論界に身を置く。明治30年代には社会主義思想へ傾倒し、明治34(1901)年に日本最初の社会主義政党である社会民主党を安部磯雄らと結成した。また、明治38(1905)年の巣鴨収監を機に無政府主義思想への関心を高めた。明治43(1910)年、大逆事件に連座し、翌年処刑される。
95 幸徳秋水金銭預証 明治34(1901)年10月30日 【中江兆民関係文書6】
書面の日付から考えて、このお金は秋水が出版に向けて奔走した、兆民の『一年有半』(博文館、明治34年)、『続一年有半』(同前)の印税であろうか。余命1年半と言われ、病床にあった兆民に代わり、秋水が管理していたものと思われる。師から号をもらい受けるほどであった弟子の、師を思う心がうかがえる。この1か月半後、兆民は逝去した。
賀川豊彦(かがわ とよひこ) 1888-1960
牧師、社会運動家。徳島中学校在学中の明治37(1904)年に洗礼を受ける。神戸神学校を明治44(1911)年卒業。大正3年(1914)米国のプリンストン大学に留学し、同6年帰国。貧困解決のための社会事業と伝道に生涯を捧げる。大正9(1920)年出版の自伝的小説『死線を越えて』は、ベストセラーとなる。関東大震災後は救援のため、神戸から東京へ活動の本拠を移した。世界的知名度も高く、戦後ノーベル文学賞・同平和賞の候補にも挙げられた。
96 賀川豊彦書簡 昭和2(1927)年3月25日 【有馬頼寧関係文書(その1)20-1】
有馬頼寧に宛てた、東京学生消費組合の組合長就任を依頼する書簡。有馬は旧久留米藩主家の第15代当主で、衆議院議員・貴族院議員を務めた。賀川とは、大正6(1917)年頃から交友があり、有馬は賀川のことを「得難い益友」と評している。東京学生消費組合は、早稲田大学の学生有志が中心となり、安部磯雄・賀川らの指導の下で大正15(1926)年に発足し、拓殖大学、東京帝国大学などにも広がっていった消費組合。有馬はこの申し出を受け入れた。
(署名部分)
賀川豊彦書簡(冒頭)

