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あの人の直筆

目次
あの人の直筆第2部 近現代第2部 第3章 政治家

第2部 近現代

第3章 政治家

尾崎行雄(おざき ゆきお) 1858-1954

政治家。新聞記者を経て立憲改進党の創立に参加。第1回総選挙以来、連続25回当選(最多当選記録)、代議士生活は63年(議員勤続年数最長記録)に及んだ。東京市長や法務大臣などを歴任。憲政擁護運動を主導したことなどから「憲政の神様」と称される。

88 尾崎行雄書簡 明治25(1892)年5月17日【森本確也関係文書1

尾崎が、地元三重の支援者で県会議員の森本確也かくやに帝国議会の状況を伝えた書簡。明治25(1892)年2月、第1次松方内閣のもとに実施された第2回総選挙では、政府が自由党・改進党を中心とした「民党」に対して大干渉を行ったが、改進党の尾崎は第1回総選挙に引き続き当選を果たした。選挙後に開会された衆議院で、民党勢力は政府の責任を追及し、選挙干渉に関する決議案が可決されて、議会は停会となった。「今回の事は立憲制度進歩の一段階」と述べるこの書簡からは、藩閥政治に対抗した尾崎の心情が伝わる。

尾崎行雄書簡

尾崎行雄書簡

尾崎行雄書簡

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後藤新平(ごとう しんぺい) 1857-1929

官僚、政治家。福島県の須賀川医学校を卒業後、大阪陸軍臨時病院雇医、愛知県病院長兼愛知医学校長等を経て内務省衛生局に入る。明治31(1898)年に台湾総督府民政局長となり、植民地経営に手腕を振るった。その後、南満洲鉄道初代総裁、鉄道院総裁、外務大臣などを歴任。大正9(1920)年から2年余り東京市長を務め、都市基盤の大幅な刷新を構想する都市計画(いわゆる「8億円計画」)を発表した。関東大震災後には帝都復興院総裁となり、東京復興計画を立案した。

89 後藤新平書簡 大正9(1920)年12月11日 【石黒忠悳関係文書474

若き日の後藤を見出した恩人、元陸軍軍医総監石黒忠悳ただのりに宛てた返信。東京市長への就任要請を受諾しない理由として、経済・産業改革のための大調査機関の実現に専念したいことを述べている。当時、東京市は大疑獄事件により前市長が引責辞任したあとであり、市会は市政を刷新できる大人物として後藤を新市長に選出した。後藤がこれを固辞すると、市会は後藤への説得を八方に頼み込み、渋沢栄一をはじめ、元老の山県有朋、首相の原敬までもが動く大掛かりな説得工作となった。石黒への書簡からわずか1週間後、後藤は市長に就任する。

後藤新平書簡(署名部分)

後藤新平書簡(署名部分)

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市川房枝(いちかわ ふさえ) 1893-1981

婦人運動家、政治家。愛知県の農家に生まれ、新聞記者などを経て、大正8(1919)年に平塚らいてうらと新婦人協会を設立。婦人参政権の獲得に尽力し、昭和20(1945)年の衆議院議員選挙法改正で婦人参政権(男女普通選挙)の実現をみた。自らも昭和28(1953)年参議院議員となり、5期25年務めた。

90 市川房枝書簡 昭和5(1930)年1月30日【下村宏関係文書(その1)77

婦人参政権獲得運動に奔走していた市川が、婦選獲得同盟主催の座談会に参加した朝日新聞社専務の下村宏に宛てた礼状である。翌月に予定されている総選挙に向けて、市川らは地方での演説会を開催しながら、「選挙革正運動」を進めていた。書簡では下村にも今後の後援を依頼している。同封されていた「婦選獲得同盟会報(号外)」には、理想の候補者像が挙げられており、「(議会)解散以来事務所は火事場のような忙しさ」とある。

書簡に同封された会報

市川房枝書簡

書簡の封筒裏

楷書について

現在私たちは、学校で楷書を習います。しかし、明治14(1881)年の小学校教則綱領では、行書や草書をまず習い、楷書を習うのは高学年になってからでした。明治24(1891)年の小学校教則大綱では「尋常小学校ニ於テハ行書若クハ楷書」、明治33(1900)年小学校令施行規則では「楷書行書ノ一種若ハ二種」と、徐々に楷書の比重が重くなっていきます。
明治後期のこの変化は、1文字を1活字とする活版印刷の普及に加え、使用する筆記用具が毛筆から、楷書を書きやすいペンや鉛筆に変化したことが大きく影響しているのではないかと思われます。


重光葵(しげみつ まもる) 1887-1957

外交官、政治家。東京帝国大学法科大学卒業後、外務省に入る。昭和8(1933)年外務次官となり、ソ連、イギリスなどの大使を歴任。東条内閣と小磯内閣の外務大臣を務めた。戦後も、東久邇ひがしくに内閣の外務大臣として降伏文書に調印。極東国際軍事裁判では禁錮7年の判決を受け、昭和25(1950)年仮釈放。公職追放の解除後は鳩山一郎内閣の外務大臣として、日ソ国交回復に尽力し、日本の国連加盟につながった。

91 重光葵揮毫の似顔絵 昭和11(1936)年6月 【森元治郎関係文書92】

重光葵の外務次官時代、訪れた通信記者の森元治郎に「画いてやろうか」と重光自ら筆をとったという似顔絵。森の角ばった顔立ちを戯画的に捉えた重光の筆運びはいかにもユーモラス。外務省詰の記者だった森と、重光との間には、情報交換を通じた交流が生まれていたのだろう。描かれたのは昭和11(1936)年6月、ソ満国境問題や二・二六事件で重光の近辺も慌ただしい時期だった。森の顔写真と見比べると、酷似とは言いがたいが、雰囲気を伝えている。似顔絵裏の森の覚書によると、重光は自らの漫画の腕を自慢していたという。

重光葵揮毫の似顔絵

森元治郎写真

昭和12年12月東京駅にて撮影【森元治郎関係文書100】


永井柳太郎(ながい りゅうたろう) 1881-1944

政治家。早稲田大学教授として植民政策を教えた後、大正9(1920)年衆議院議員となり、憲政会入りした。普通選挙法の成立に尽力した。昭和6(1931)年に立憲民政党幹事長となり、斎藤内閣の拓務大臣、近衛内閣の逓信大臣、阿部内閣の鉄道大臣などを務めた。大日本育英会の創立者でもある。

92 永井柳太郎書簡 昭和15(1940)年7月29日【有馬頼寧関係文書(その1)44-1

戦前期の「雄弁」政治家として著名な永井が、旧久留米藩主家出身で貴族院議員の有馬頼寧に宛てた書簡。当時近衛文麿を軸とし、有馬等が推進した新体制運動の渦中で、各政党は次々と解党し新体制への参加を明らかにした。第2次近衛内閣成立後の7月25日には、立憲民政党の早期解党を求めて活動していた同党所属の永井ら約40名の代議士が、町田忠治総裁等の幹部に見切りをつけて脱党した。そのことを永井が有馬に伝える書簡である。結局、立憲民政党は8月15日に解党して、10月12日には近衛を総裁に大政翼賛会が成立、有馬は事務総長、永井は常任総務に就任した。

永井柳太郎書簡


浅沼稲次郎(あさぬま いねじろう) 1898-1960

社会運動家、政治家。農民労働党、日本労農党などに所属した後、昭和11(1936)年に社会大衆党から衆議院議員となった。戦後は日本社会党の結成に加わり、昭和23(1948)年に書記長に就任、昭和35(1960)年に委員長となり安保改定阻止の院内外闘争の前面に立った。同年、日比谷公会堂での党首立会演説会で右翼の少年に刺殺された。精力的な活動から「人間機関車」と呼ばれた。

93 国会解散を要求する演説草稿 昭和35(1960)年6月【浅沼稲次郎関係文書(その1)2457】

浅沼の自筆原稿。岸内閣は、昭和26(1951)年に締結された日米安全保障条約の不平等性を解消し、日本の自主性を強化するとして、昭和35(1960)年1月19日新安保条約に調印した。同年3月、社会党委員長に就任した浅沼は新条約成立阻止のため、院内外の闘争の先頭に立った。5月20日未明の衆議院における強行採決を受けて審議が空転する中で、社会党は代議士会で議員総辞職の方針を決定し、岸内閣退陣、国会解散を要求した。掲載資料はその際の演説草稿である。

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「国会解散を要求する演説草稿」

国会解散を要求する演説草稿

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