目次
第2部 近現代
第1章 幕末・維新の人々 2. 維新期の人々
板垣退助(いたがき たいすけ) 1837-1919
56 板垣退助書簡 文久2(1862)年6月6日【憲政資料室収集文書69-1-3】
江戸藩邸詰の板垣から同郷の土佐藩士片岡健吉に宛てた書簡。「長井雅楽の切腹は虚説の趣」と述べられている長井とは長州藩士である。文久元(1861)年3月に長井は藩主毛利敬親に開国と公武合体を建白し、一時は長州藩の政治方針となった。しかし、まもなく木戸孝允ら藩内の尊攘派の反対にあい失脚、切腹を命じられた。この書簡が書かれた文久2(1862)年6月時点では長井は失脚しただけであり、切腹は翌年2月であった。
板垣退助書簡
三条実美(さんじょう さねとみ) 1837-1891
幕末・明治の公家、政治家。尊攘派公家の中心人物として長州藩と提携し、公武合体派の公家岩倉具視を弾劾するなど、朝幕の力関係の逆転を策したが、会津・薩摩を中心とする公武合体派に敗れ、他の公家6人とともに長州へ逃れた(七卿落ち)。明治維新後は、太政大臣、内大臣などを歴任した。
57 三条実美書簡 明治6(1873)年7月9日【憲政資料室収集文書265-1-2】
太政大臣の三条から、右大臣の岩倉具視に宛てた書簡。当時岩倉は、特命全権大使として使節団を率いて欧米歴訪中であった。三条は書簡の前半で皇居炎上後の様子に触れている。明治6(1873)年5月5日の皇居炎上により赤坂離宮が仮皇居となっていたが、そのままでは国内外に対し体面を保ち難かった。いずれ皇居を再建するに当たっては、使節団が視察してきた各国の帝王居所の体裁を参考としたいと述べている。後半では大蔵省などの人事問題に触れている。
三条実美書簡
岩倉具視(いわくら ともみ) 1825-1883
幕末・明治の公家、政治家。当初公武合体を目指したが、転じて薩長討幕派と結んで王政復古を実現し、明治政府では参与や右大臣に就任。特命全権大使として「岩倉使節団」を率いて欧米各国を歴訪した。帰国後は征韓論を退けるなど内治策に努めた。
58 岩倉具視書簡 明治6(1873)年7月2日【三条家文書(書簡の部)191-49】
使節団を率いて欧米歴訪中の岩倉から、日本で留守を預かる太政大臣三条実美に宛てた書簡。日付からみてジュネーブで書かれたものと思われ、各国歴訪も残すところ1か国である旨記されている。また、皇居炎上の報に驚愕したことも書かれており、留守政府の種々の苦労を気遣っている。岩倉はこの書簡を書いた18日後、7月20日にマルセイユを発し帰途についた。
岩倉具視書簡
岩倉具視書簡
有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう) 1835-1895
有栖川宮第9代親王。幕末に尊王攘夷論を主張。明治政府では総裁職に就任した。戊辰戦争で東征大総督となり、のちに陸軍大将や参謀総長を務めた。
59 有栖川宮熾仁親王書簡 明治9(1876)年7月24日【陸奥宗光関係文書3-10】
元老院議長の職にあった有栖川宮が、元老院議官であった陸奥宗光と柳原前光に宛てた書簡。芝離宮に於いて、三条実美、岩倉具視、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文などを招いて催されると記されている宴会は、日にちや顔ぶれからみて明治9(1876)年に実施された明治天皇の東北・北海道巡幸の慰労会と思われる。
有栖川宮熾仁親王書簡
有栖川宮熾仁親王書簡
豆知識
書風から立ち位置がわかる!?
江戸時代には御家流(青蓮院流とも)という書風が主流でした。平安時代の書風の流れをくみ尊円法親王が確立した書風で、門下生が豊臣秀吉、徳川家康の右筆(文書作成の専門職)として召し抱えられたことから広まりました。一方、儒学者、僧侶等の一部文化人の間では中国風の唐様と呼ばれる書風が使われていました。
幕末の志士の字には、唐様を踏まえたものが見られます。また、明治新政府は公文書を唐様で執筆しました。これは反幕感情によるものと考えられます。
西郷隆盛(さいごう たかもり) 1827-1877
60 西郷隆盛書簡 慶応4(1868)年2月1日【牧野伸顕関係文書(書類の部)C13】
西郷から大久保利通に宛てた書簡。慶応4(1868)年1月11日、鳥羽・伏見の戦いが終局に向かう中で起きた神戸事件(神戸居留地附近での岡山藩兵と外国兵との衝突および外国人殺害事件)の早期解決を促す内容である。解決が遅れることにより、新政府が外国から侮られることを危惧する様子が伝わる。また、追伸では英国公使の通訳をしていたアーネスト・サトウ(のちの英国公使)の名前もみえ、前述の早期解決の重要性はサトウから内々に聞いたことであることがわかる。
61 西郷隆盛書簡 〔慶応2(1866)年7月上旬〕 【川上直之助収集文書20】
西郷が大久保利通(一蔵)に宛てたものとして巻子本に仕立てられ、伝来している書簡。しかし、本文部分と日付・署名・宛名の部分の継ぎ目を境に用紙の風合が異なり、本来は別の人物に宛てた書簡が、大久保宛書簡に仕立てられた可能性が高い。掲載資料と同じく川上直之助収集文書に含まれている「南洲翁書簡ノ考證」では、慶応2(1866)年6月に英公使パークスが薩摩を訪問した際の西郷・パークス間でのやりとりを、薩摩藩家老の岩下方平に報告する同年7月上旬の文書であると推定している。
西郷隆盛書簡
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大久保利通(おおくぼ としみち) 1830-1878
62 大久保利通書簡 明治6(1873)年10月17日【三条家文書(書簡の部)279-4】
「奉職の目的立ち難く」と大久保が太政大臣三条実美に提出した参議辞任の趣意書。三条や岩倉具視らの要請をうけ参議に就任した大久保は、反征韓論の立場から、西郷隆盛が使節として朝鮮に派遣されることに反対した。しかし、10月15日の閣議により西郷の派遣が内定するにおよび、大久保は17日に辞表と共にこの趣意書を提出。この問題はそのまま決着することなく、最終的には24日に明治天皇が岩倉の奏上を受け入れ西郷の派遣を無期延期とした。征韓論に敗れた西郷は参議を辞し、鹿児島に戻った。
大久保利通書簡
大久保利通書簡
63 大久保利通書簡 明治10(1877)年2月7日 【牧野伸顕関係文書(書類の部)A4】
明治天皇の行幸にしたがい京都出張中の伊藤博文に宛てた書簡。長さは4.8mに及ぶ。西南戦争の発端となった1月末の鹿児島県私学校派による火薬庫襲撃事件を受け、今後の対応などを書き送っている。また、事件への西郷隆盛の関与について、大義名分を重んじる西郷の人柄や、報告されている西郷の近況などを縷々あげ、関与はありえないと結論づけている。朝廷に対する反乱は、たとえ郷里鹿児島の人々であっても討伐するという揺るぎない意志と、盟友西郷への思いが交錯している。
木戸孝允(きど たかよし) 1833-1877
幕末・明治の政治家。初め桂小五郎と称し、のち木戸姓。西郷隆盛と薩長同盟を結び、倒幕を図った。「五箇条の御誓文」起草に参画、版籍奉還や廃藩置県を推進した。征韓論・征台論に反対して一時政権の主流から離れたが、大阪会議により、再び参議となった。「明治維新の三傑」の1人。
64 木戸孝允書簡 明治5(1872)年9月14日【井上馨関係文書357-1】
岩倉使節団の副使として欧米歴訪中の木戸から、日本の井上馨に宛てた書簡。およそ7.5メートルにわたるこの長い書簡は、明治維新当時の苦難や犠牲の回顧から始まり、当時ワシントン在勤だった26歳の森有礼を引き合いに出しながら、日本の拙速な開化政策が内面の意識を伴わない「皮膚上之事」であると非難している。維新時の苦難を知り、新政府の発足に心身を削ってきた木戸にとって、維新前後に欧米留学歴をもち、外国に向かって軽々に日本政府を非難するかのような言動をとる森は容認しがたい存在だったことがわかる。また、文末の「長夜鬱々之余愚意吐露仕候」には、生真面目で思いつめがちな木戸の性格が表れている。
副島種臣(そえじま たねおみ) 1828-1905
幕末・明治の政治家。佐賀藩出身。尊王攘夷運動に加わったのち、新政府の参与となり、政体書の起草に従事した。外務卿を務め、樺太国境問題をめぐる対露交渉や、日清修好条規の批准書交換、マリア・ルス号事件への対応などに当たったが、征韓論をとなえて板垣退助や江藤新平らとともに下野した。のち枢密顧問官、第1次松方内閣の内務大臣を歴任した。能書家としても知られる。
65 副島種臣意見書 明治4(1871)年頃【三条家文書(書類の部)47-6】
副島による日露の樺太雑居問題の解決法に関する意見書であり、太政大臣の三条実美に提出されたと考えられる。幕末から明治初期にかけて、樺太全島は日露両属の地とされ、両国が雑居する状態であった。しかし、実際には樺太の単独領有を目指すロシアが軍隊や流刑囚を送り込み、日本人への排斥行動が盛んとなっていた。副島は明治3(1870)年頃から参議として、のちには外務卿としてロシアとの樺太問題の交渉に挑んでいた。しかし征韓論をめぐる副島の下野により、この問題の解決は明治8(1875)年の樺太・千島交換条約調印まで持ち越されることになる。
副島種臣意見書
副島種臣意見書
66 副島種臣書簡 明治28(1895)年11月20日【伊藤博文関係文書(その1、書簡の部)294-1】
東邦協会会頭を務める副島から、首相の伊藤博文に宛てた書簡。日清戦争後の日本の東洋および世界に対する施策について、東邦協会の建議書を奉呈するという内容である。東邦協会とは、副島、近衛篤麿らが中心となって明治24(1891)年に結成した、東洋諸邦および南洋諸島に関する地理・貿易・歴史などを調査する団体。書簡に述べている通り、建議は『東邦協会会報』の16号に掲載された。
副島種臣書簡
副島種臣書簡

