目次
第2部 近現代
第10章 芸術家
高橋由一(たかはし ゆいち) 1828-1894
洋画家。幼少時から狩野派に学んだが、西洋画を志して幕府の洋書調所で画学を学ぶとともに、横浜にいたワーグマンなどから西洋画法の指導を受ける。パリ万国博覧会(1867年)、ウィーン万国博覧会(1873年)に出品する。風景画、人物画、静物画など、日本における油彩画の先駆者の一人。代表作は「花魁」「鮭」ほか。
155 高橋由一書簡 明治14(1881)年12月20日 【三島通庸関係文書374-1】
山形県令三島通庸に宛てた書簡。山形では明治9(1876)年からの約6年間、「鬼県令」と呼ばれた三島の指揮による大土木事業が行われ、20か所以上の新道、65基の橋がつくられた。三島の依頼により、由一は明治14(1881)年に山形を訪れ、その成果の一つである栗子山隧道を油彩で描いた。帰京後、由一が三島に送った書簡には、「新世界に在るかと疑わしむるに至る」と旅の途中で見た新旧混交の風景の美しさをたたえる言葉が添えられている。
高橋由一書簡(3)
高橋由一書簡(2)
高橋由一書簡(1)
富岡鉄斎(とみおか てっさい) 1837-1924
南画(文人画)家。父は京都の法衣商。国学、儒学、漢学などを修めた。幕末は勤王家と交流し、維新後は大阪の大鳥神社などいくつかの神社の神官を務め、神社復興に尽力した。明治14(1881)年以降は京都に戻り、学問と画業に専念し、南画壇の重鎮となった。最晩年まで盛んな制作活動を行い、独自の画境を開いた。
156 富岡鉄斎書簡 〔年不詳〕9月2日 【石黒忠悳関係文書850】
書簡の内容は、石黒忠悳家から過分の「御肴料」(祝儀)を先日いただいたので、依頼されている箱書きの代金5円の受け取りは辞退するというもの。晩年の鉄斎のところには、毎日、制作や箱書きの依頼者が紹介もなく引きも切らず押しかけ、家人は断るのに非常に苦労していたという。宛先の林雨坪については詳細不明。
(封筒)
岡倉天心(おかくら てんしん) 1862-1913
明治時代の美術指導者。本名は覚三。幼いころから英語や漢籍を学び、東京大学でフェノロサに師事。東京美術学校(のちの東京芸術大学)の設立に努め、のちに校長に就任した。明治31(1898)年、門弟の横山大観や菱田春草らと日本美術院を創立した。ボストン美術館の東洋部長となるなど、日本美術を海外に紹介することに尽力した。
157 岡倉天心書簡 明治29(1896)年8月27日【阪谷芳郎関係文書224】
当時東京美術学校長であった天心から、大蔵官僚の阪谷芳郎に宛てた返書である。阪谷から写実的な鯉の絵の発注先について相談を受けたものと推測できる。橋本雅邦のものは大いに見るべきものがあるが、写実的なものということであれば川端玉章がよいと勧めており、他にも下村観山など有望な若手画家を数名挙げている。阪谷はのちに第1次西園寺内閣大蔵大臣・東京市長・貴族院議員を歴任した。
岡倉天心書簡
岡倉天心書簡
横山大観(よこやま たいかん) 1868-1958
158 横山大観書簡〔大正11(1922)年頃〕10月7日【牧野伸顕関係文書(書簡の部)658】
大観から宮内大臣の牧野伸顕に宛てた書簡である。川合玉堂の伝言により、大観から牧野に『天心全集』(岡倉天心著【507-28】)を贈呈するという内容であり、この書簡は本と共に送られた送り状と考えられる。天心は東京美術学校の校長を辞するとともに美術団体の日本美術院を創設しており、大観と玉堂はともに創設時から参加している。2人の交流の様子が身近にうかがえる書簡である。
横山大観書簡
横山大観書簡
竹内栖鳳(たけうち せいほう) 1864-1942
159 竹内栖鳳書簡 大正14(1925)年7月22日【関屋貞三郎関係文書693-8】
栖鳳から宮内次官の関屋貞三郎に宛てた接待礼状の葉書である。書面には、東京出立後の東伊豆でのひとこまとして、吉浜の崖下の日蔭で煙草を一服している際、子供の釣り糸に蛸がかかり、蛸も子供も自分も驚いたことが、ユーモラスに記されている。釣竿にかかった蛸の絵も描かれており、簡素ながらも動物の描写に定評があった栖鳳らしい躍動感が感じられる。
竹内栖鳳書簡
北大路魯山人(きたおおじ ろさんじん) 1883-1959
芸術家。初め書と篆刻で身をたてたのち、古美術や料理の研究に進んだ。会員制の高級料亭星岡茶寮の開設後には陶芸に本格的に取り組むなど、様々な芸術分野で活躍した。
160 北大路魯山人書簡 昭和初期6月17日【牧野伸顕関係文書(書簡の部)204】
魯山人から牧野伸顕に宛てた書簡である。昭和初期の魯山人は永田町で高級料亭の星岡茶寮を運営する一方、北鎌倉に星岡窯を築き作陶に励んでいた。この書簡は星岡窯への招待状であり、大根の煮ころがしなどの田舎料理でもてなしたいと述べている。便箋の左下には「星岡茶寮」と印刷されており、専用の便箋であることがわかる。
北大路魯山人書簡
朝倉文夫(あさくら ふみお) 1883-1964
彫刻家。大分生まれ。幼少期に朝倉家の養子になる。明治36(1903)年東京美術学校彫刻科選科に入学した。文展での受賞を重ね、大正10(1921)年には東京美術学校の教授に就任する。代表作に「墓守」などがある。また、国会議事堂中央広間にある大隈重信の銅像や早稲田大学構内にある大隈の銅像も朝倉の作品。アトリエ・自宅は現在、朝倉彫塑館(東京都台東区)となっている。
161 朝倉文夫書簡 〔年不詳〕年11月4日 【有光次郎関係文書8-2】
有光次郎に宛てた書簡。椎茸をお裾分けするという内容で、椎茸は神角山で栽培されたものであり、その麓にある実家から届いたものだという。朝倉は「この山の中から東都に来ているのは私とこの椎茸だけて時々郷愁にひたっている」と書いている。故郷について朝倉はある回想で、実家と母の生家と養家のいずれでも可愛がられ、幸福な育ち方だったと述べている。有光は、占領下で文部事務次官、のち武蔵野美術大学初代学長、日本芸術院長。
柳宗悦(やなぎ むねよし) 1889-1961
民芸運動家、哲学者。学習院高等科時代に文芸雑誌『白樺』の創刊に参加、多くの寄稿を行った。東京帝国大学で哲学を学ぶ。朝鮮陶磁器の美しさに魅了されるとともに、無名の職人の手による工芸品の美を見出す。大正14(1925)年に民衆的工芸を意味する「民芸」の語を作り、民芸運動を開始。各地で展覧会開催や工芸調査・収集を行うほか、活発な執筆活動を展開した。昭和6(1931)年雑誌『工藝』を創刊、昭和11(1936)年に日本民藝館の初代館長に就任。
162 柳宗悦書簡 昭和31(1956)年6月29日 【石黒忠篤関係文書47】
石黒忠篤から同月に刊行した『農政落葉籠』を贈呈されたことに対する礼状。石黒は農政の専門家で「農政の神様」とも呼ばれた。書簡の末尾に書かれた「民藝館」は、柳が推し進めた民芸運動の拠点、日本民藝館(東京都目黒区)のこと。日本民藝館のマークの透かしが入った料紙もまた美しい。

