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あの人の直筆

目次
あの人の直筆第2部 近現代第2部 第7章 教育家

第2部 近現代

第7章 教育家

新島襄(にいじま じょう) 1843-1890

宗教家、教育家。元治元(1864)年密航により渡米し、ボストンで洗礼を受ける。明治5(1872)年には米国から岩倉使節団に随行し、欧米の教育制度を視察。キリスト教主義教育の必要性を訴え、帰国後、明治8(1875)年京都に同志社英学校(のちの同志社大学)を創立した。明治21(1888)年には「同志社大学設立の旨意」を発表。明治23(1890)年1月、大学設立のための募金活動中に発病、療養先で客死した。

111 新島襄書簡 明治22(1889)年2月16日 【井上馨関係文書459-6】

「大日本帝国憲法(明治憲法)」発布の5日後に書かれた書簡。当時農商務大臣の井上馨に対し、邸宅が火事で半焼したことへの見舞いを述べている。また追伸では、憲法発布の式典当日に起こった文部大臣森有礼の暗殺事件に驚いたことや、京都に大学の用地7千坪を購入したことについても触れている。前年11月に「同志社大学設立の旨意」を全国の主要な雑誌・新聞に発表し、大学設立運動に邁進していた時期である。

新島襄書簡

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津田梅子(つだ うめこ) 1864-1929

明治・大正期の女子教育家。8歳のとき、日本初の女子留学生として山川(大山)捨松ら4人の少女とともにアメリカに留学。帰国後、華族女学校教授、女子高等師範学校教授などを経て、明治33(1900)年に女子英学塾(のちの津田塾大学)を麹町に設立した。 日本YWCA初代会長でもある。

112 津田梅子書簡 明治29(1896)年12月8日【牧野伸顕関係文書(書簡の部)588

華族女学校教授に在任していた津田が当時の文部次官牧野伸顕に宛てた礼状。牧野への依頼の内容は定かではないが、「万事好都合に相運び」「当人にも…深く喜び居り候」とあり、本件に関する牧野の尽力への感謝を伝えている。牧野は大久保利通の次男で、地方官、外交官などを経て文部大臣、外務大臣等の要職を歴任。のちには内大臣として、昭和天皇の重臣の役割を担った。

津田梅子書簡

津田梅子書簡


下田歌子(しもだ うたこ) 1854-1936

明治から昭和期の女子教育家、歌人。宮内省に勤め、皇后から歌才にちなみ歌子の名を受けた。退官後、上流子女教育を目的とした桃夭女塾とうようじょじゅくの創立をはじめ、華族女学校及び実践女学校(のちの実践女子大学)の創立に関わった。

113 下田歌子書簡 明治19(1886)年12月16日【三島通庸関係文書318-6

華族女学校教授の任にあった下田が、警視総監三島通庸に宛てた書簡。三島の後ろ盾を得るため、自身が編纂した道徳教科書『国のすがた』(113関連資料)の写しを刊行前に提出する旨を伝え、著者の名義などについても相談している。下田はこの時期伊藤博文はじめ政府上層部への人脈を通じて、『国のすがた』の普及を策していた。『国のすがた』は翌年3月に大蔵大臣松方正義序文を付し、三島の名で刊行された。なお、これ以前に下田は、『和文教科書』『小学読本』などの教科書も刊行している。

下田歌子書簡

下田歌子書簡

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113関連資料:国のすがた 明治19(1886)年【三島通庸関係文書551-1(イ)】

国のすがた


嘉納治五郎(かのう じごろう) 1860-1938

明治から昭和期の教育家、柔道家。東京大学卒業後に講道館を開き、柔術を発展させて柔道を創始、研究と普及に尽力した。日本人初のIOC(国際オリンピック委員会)委員となるなど、広く日本のスポーツの発展に貢献した。

114 嘉納治五郎書簡 昭和13(1938)年4月4日【下村宏関係文書(その1)256

昭和11(1936)年7月、ベルリンでのIOC総会において、昭和15(1940)年の東京での夏季オリンピック開催が決定したが、その後の日中戦争の長期化により、開催は危うくなった。しかし昭和13(1938)年3月のIOCカイロ総会では、ひとまず東京開催の方向に落ち着いた。IOC委員としてオリンピック招致活動に尽力してきた嘉納は、総会参加後、日本体育協会会長の下村宏に宛てたこの書簡の中で、依然山積する問題に苦慮している旨を伝えた。このひと月後、嘉納は帰路の船中で肺炎により亡くなり、同年7月には東京のオリンピック返上が決定した。

嘉納治五郎書簡


新渡戸稲造(にとべ いなぞう) 1862-1933

教育家、農政学者。明治14(1881)年札幌農学校卒業。東京大学を退学してアメリカ、ドイツに留学。帰国後は札幌農学校教授となる。その後、第一高等学校校長、東京帝国大学教授、東京女子大学初代学長などを歴任。一方、国際連盟事務次長や太平洋問題調査会の理事長も務め「太平洋の橋」になろうという信念のもと活動した。

115 北米遊説記を読みて 昭和2(1927)年7月16日 【鶴見祐輔関係文書(書簡の部)514-4

鶴見祐輔の著作『北米遊説記』を読んだ感想を認めたものである。鶴見は東京帝国大学での新渡戸の教え子で、新渡戸の渡米に随行したこともあった。本の発行元の大日本雄弁会・講談社用箋に書かれ、封筒も大日本雄弁会講談社出版部宛てであり、同書を推薦するために執筆されたものであろうか。鶴見は大正13(1924)年、米国で排日移民法が実施された直後に単身渡米し、日本に対する理解を広めるべく1年以上にわたって、公開講演や新聞雑誌への寄稿などを行っていた。新渡戸は掲載資料のなかで、そうした海外での活動が国内で評価されないことを批判し、「君の苦心は察するに余りある」と労っている。

北米遊説記を読みて(2枚目)

北米遊説記を読みて(1枚目)

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