目次
第2部 近現代
第1章 幕末・維新の人々 1. 幕末を生きた人々
佐久間象山(さくま しょうざん(ぞうざん)) 1811-1864
48 佐久間象山真翰 〔安政-文久年間〕 2月18日 【WA47-14】
象山が、詩人で松代藩の馬奉行を勤めた竹村杏村に送った書簡。杏村から送られた詩稿について感想を述べた後、母親の服喪中に詩を作るのは礼に反する、と忠告しており朱子学に傾倒した象山の一面が垣間見られる。「長々之屏居にて」などの語から、安政元(1854)年から文久2(1862)年までに及ぶ松代蟄居中の書簡と考えられる。2人はともに松代藩の儒者、鎌原桐山に師事し、漢詩文を通した交流のほかに、しばしば一緒に馬で遠乗りするなどの親交があった。
佐久間象山真翰(部分)
井伊直弼(いい なおすけ) 1815-1860
49 井伊直弼書簡 安政5(1858)年6月29日 【三条家文書(書簡の部)97-7】
江戸の井伊直弼から前内大臣三条実万に宛てた返信書簡。大老就任祝いへの礼を述べつつ、同月19日の日米修好通商条約の調印が、止むを得ないものであったことを説明している。直弼は、切迫する国内問題を抱えた現状では「外夷」に存分に対処できないとし、万一にもアロー戦争で敗れた清国の「覆轍ヲ践」む(覆った前車と同じ轍を踏むこと)ようなことがあっては国家の大事になると述べている。実万は、この条約調印問題や将軍継嗣問題を巡って直弼と対立し、同年に始まる安政の大獄に連座して出家に追い込まれる。
吉田松陰(よしだ しょういん) 1830-1859
50 吉田松陰書簡 安政6(1859)年3月【井上馨関係文書634-2】
幕府の日米修好通商条約調印をめぐる過激な言動により萩の野山獄に収容された松陰から、交流が深かった人(来島又兵衛・小田村伊之助・桂小五郎(木戸孝允)・久保清太郎)に宛てた書簡。死を覚悟した心境を吐露するとともに、自分の指示による伏見要駕策(参勤交代途上の長州藩主毛利敬親を伏見で奪取し、孝明天皇に謁見させ、攘夷の勅命を得ようとした計画)の失敗により投獄された愛弟子入江九一(杉蔵)について述べている。入江は、松陰の他の門弟たちが反対する同策に賛成し、実行を計画したが、老母の扶養と家の存続のために計画の実行を直前で弟に譲り、自らは家に残ったにもかかわらず投獄されてしまった。しきりに放免を求める入江について、天下国家の大事を前にして母子の情を訴える姿に不満を示しつつも、一定の理解を示そうとしている。入江はこののち出獄するも、禁門の変で久坂玄瑞らとともに戦い重傷を負って自刃する。
51 吉田松陰書簡 安政6(1859)年3月29日 【野村靖関係文書20-1-12】
獄中から義弟の小田村伊之助、弟子の久坂玄瑞らに宛てた書簡。この時期、幕府の日米修好通商条約調印を批判する過激な言動により再度投獄されていた松陰は、小田村や弟子たちとも絶交していた。その理由として、獄中の弟子入江九一、野村和作(靖)兄弟がほかの弟子たちから「棄」てられていることをあげている。ほかの弟子たちが松陰と距離を置く中、この2人だけは松陰の指示に従って決起し、囚われた。2人を「棄」てる弟子たちを自分が絶交するのは義であると述べているが、書簡の行間には久坂の筆で「僕甚落着ニ及不申」(納得できないの意)の書き込みも残る。
吉田松陰書簡(3)
吉田松陰書簡(2)
吉田松陰書簡(1)
豆知識
手紙の続きは、一番最初に戻って書く
書き足りないことがあれば、次の紙を使うのではなく、最初に戻って書く場合もありました。これを「返し書き」といいます(例:下田歌子)。そのため、手紙の書き始めを数cmあけて書き始めるのが作法でした。もし何も書くことがなければ「以上」とだけ書いて、返し書きがないことを示す場合もあります。さらに、返し書きでそのスペースも埋まってしまったら、すでに書いてある行の間をぬって書くこともありました(例:細川ガラシャ)。
吉田松陰の書簡(展示資料50)では、追伸で書き足りないことを、すぐ前のスペースに戻って、しかも向きを逆に書いています。これも返し書きの一種といえるでしょう。

坂本龍馬(さかもと りょうま) 1835-1867
52 坂本龍馬書簡 慶応3(1867)年10月22日 【陸奥宗光関係文書51-9】
海援隊の盟友陸奥宗光(のち外務大臣)に宛てた商取引に関する、現代風にいえば社内連絡の手紙。沢屋の加七が持ち込んできた仙台藩との取引話があるから、大坂から京都に戻ることを検討してほしいと伝えている。「商法の事は陸奥に任し在之候得ば、陸奥さへうんといへは」からは、いかに龍馬が陸奥の商才に惚れこみ、全幅の信頼をおいていたかがわかる。
坂本龍馬書簡(冒頭)
坂本龍馬書簡(冒頭)
末尾(署名部分)
53 新政府綱領八策(『亡友帖』のうち)慶応3(1867)年11月【石田英吉関係文書1-5】
「船中八策」をもとに龍馬が起草して土佐藩重役に示した新国家の政体案。「船中八策」とは、慶応3(1867)年に土佐藩士後藤象二郎が前藩主山内容堂に大政奉還の進言を行った際、龍馬と作成したものであるという。大政奉還のほか、議会制度、官制、外交、大典の撰定、軍制など後の明治新政府の基礎となる建言を含んでおり、同年10月に土佐藩から幕府へ提出された大政奉還に関する建白書も、この「船中八策」に基づいて作成された。掲載資料の伏字部分「○○○」には容堂説、徳川慶喜説などがあり、今も通説は定まっていない。
中岡慎太郎(なかおか しんたろう) 1838-1867
幕末の志士。土佐生まれ。土佐勤王党結成に参加したが、土佐藩によって弾圧されると、脱藩し、坂本龍馬とともに薩長同盟締結に尽力した。のちに土佐藩より脱藩の罪を許され、龍馬の海援隊に続き陸援隊を結成し隊長となったが、龍馬とともに近江屋で暗殺された。
54 中岡慎太郎筆跡(『亡友帖』のうち) 慶応3(1867)年正月【石田英吉関係文書1-15】
中岡慎太郎は慶応3(1867)年1月に大宰府に赴き、文久3(1863)年8月18日の政変で京都から追放されていた七卿のうち、当時大宰府に滞在していた三条実美・三条西季知・東久世通禧・四条隆謌・壬生基修の5人に孝明天皇の死を伝えた。そこで詠んだ七言絶句である。
亡友帖 中岡慎太郎筆跡
高杉晋作(たかすぎ しんさく) 1839-1867
幕末の志士。長州生まれ。松下村塾で学んだのち、尊王攘夷運動に参加し、英国公使館の焼き討ちなどに関与した。文久3(1863)年に下関防衛のために奇兵隊を創設、第2次幕長戦争で幕府軍を撃退するなど活躍したが、維新前に病没した。
55 高杉晋作書簡(『亡友帖』のうち)〔慶応元(1865)年頃〕【石田英吉関係文書1-7】
署名に“谷”とあり、藩命により「谷潜蔵」と改名した慶応元(1865)年9月以降の筆であろう。同世代の石田に「激論を申し述べ」たことについて「病客(病人)は気短にて兎角失敬」と詫びている。松下村塾において高杉の弟分であった伊藤博文は、のちに高杉の記念碑の碑文で「動けば雷電のごとく、発すれば風雨のごとし」とその人柄を評しているが、この書簡からも、熱しやすく奔放な高杉の人柄が垣間見える。
コラム 亡友帖
石田英吉が、武田耕雲斎、木戸孝允、坂本龍馬、中岡慎太郎、高杉晋作など交友のあった人物15人の書簡や漢詩(草稿)など19点の筆跡を一つの巻物に貼り込んだもの。
石田は土佐に生まれ、勤王運動に奔走した志士であった。天誅組の挙兵に加わり、のち奇兵隊、海援隊に加入、戊辰戦争にも従軍した。維新以後には新政府に仕え、農商務省次官、高知県知事、明治29(1896)年に男爵、のちに貴族院議員となる。
石田がこの巻物を作成した、あるいは資料を集めた動機はつまびらかではないものの、高知県知事在任中の明治26(1893)年に、内務省からの訓令により維新の功労者の調査を行ったことも影響していると思われる。また、明治30(1897)年には、元治元(1864)年9月5日に処刑された土佐勤王党の二十三士をしのび、記念碑の建立に尽力している。当時、石田はこの二十三士について資料を集めるとともに懐旧談を遺しており、若き頃の同志の回顧やその事績を伝えることに積極的であったといえよう。
石田に限らず、ある程度社会が落ち着いてきた明治20年代以降になると、幕末維新期の活動について元幕臣や旧藩関係者によって、聞き書きや回顧がなされるようになってきていた。
石田が残した文書(石田英吉関係文書)には、前述の二十三士にかかわる「海南殉難士略伝」といった記録や天誅組に関連する資料類「大和日記」も遺されており、後世に維新期の事績を伝えようとする石田の思いがうかがえる。

<その他の「亡友帖」に筆跡がある人物(掲載順)>
藤田東湖
武田耕雲斎(たけだ こううんさい) 1803-1865
幕末の水戸藩士。水戸藩改革派の主流として活躍したのち、尊王攘夷の急進派である天狗党の首領となって京都を目指したが、金沢藩に降伏して処刑された。
木戸孝允
高松鶴吉(たかまつ つるきち) 1807-1876
幕末の儒学者。土佐で私塾を開き、中岡慎太郎や石田英吉を輩出した。坂本龍馬の姉の千鶴の夫であり、長男が坂本家の本家を、二男が龍馬の後を継いだ。
間崎哲馬(まさき てつま) 1834-1863
幕末の土佐藩士。土佐勤王党に参加し、藩政改革を目指したが、前藩主である山内容堂の怒りをかい、自刃を命じられた。
大山綱良(おおやま つなよし) 1825-1877
幕末の薩摩藩士、官僚。寺田屋事件では過激派藩士粛清の中心となった。維新後、鹿児島県令在任中の西南戦争で西郷隆盛を支援したため、処刑された。
門田為之助(かどた ためのすけ) 1838-1867
幕末の土佐藩士。土佐勤王党に参加し、勝海舟の門下生として坂本龍馬らと交流があった。
河上彦斎(かわかみ げんさい) 1834-1872
幕末の熊本藩士。尊王攘夷派に参加し、佐久間象山を暗殺したことなどから「人斬り彦斎」とも呼ばれた。明治3(1870)年反政府陰謀の嫌疑で捕らえられ、その後処刑された。
吉賀牧太(よしが まきた) 1844-1868
長州藩出身。戊辰戦争の際に越後に出陣したが、病没した。
伊達千広(だて ちひろ) 1802-1877
幕末の和歌山藩士、国学者、歌人。史書「大勢三転考」を記して名を残した。陸奥宗光の実父。
長谷川鉄之進(はせがわ てつのしん) 1822-1871
幕末の尊王攘夷派の志士。越後国出身。禁門の変や戊辰戦争を戦った。
大楽源太郎(だいらく げんたろう) 1834-1871
幕末の長州藩士。高杉晋作らと尊王攘夷運動を推進、私塾の西山書屋を開いた。維新後は大村益次郎暗殺事件に連座して幽閉され、脱走したが、明治4(1871)年潜伏先の久留米で暗殺された。

