第4回内国勧業博覧会

京都の巻き返し

開催期間
:1895(明治28)年4月1日~7月31日
場所
:京都市岡崎公園
入場者数
:1,136,695人

博覧会開催が利益をうむことが周知されたため、誘致活動が行われるようになり、第4回の開催地は、東京遷都以降の低迷を活性化したい京都に決まった。当初、第4回内国勧業博覧会は1894年に開催される予定であったが、京都市民は京都の建都1100年の記念事業として、1895年に開催することを強く望んだ。1894年には日清戦争が勃発したが、政府は殖産興業政策は戦時中であっても重要であるとし、予定通りの開催を決めた。

会場は平安神宮の南に当たり、会場面積は17万8,000平方メートル、建物敷地総数は4万7,000平方メートルであった。会場の正面には大理石製の噴水が建ち、その左右両側に売店が並んだ。

建物は、美術館、工業館、農林館、機械館、水産館、動物館の6館が主要なものであり、機械館の動力源はそれまでの石炭から電力に変わった。

水産館の前には水産室、今日でいう水族館があり、鰻や鯉、鮒などを見せた。ここでは魚を上から見るというそれまでの方法とは異なり、側面から見ることができるということで珍しがられた。ただし海水魚はここでは見られず、兵庫県の和田岬にある遊園地和楽園内に設けた生け簀で見ることができた。

また、美術館ではフランスから帰った黒田清輝が出品した『朝妝』と題した裸体画(のちに焼失)が、風俗擾乱の大騒動を起こした。結局、絵の一部を布で覆って陳列続行に落ち着いたが、ビゴー(G. Bigot)の風刺漫画にもこの事件が登場している。

ほかに大きな話題として、会場の外に正式な交通機関として日本ではじめて市街電車が登場したことがある。運行は、京都七条から会場の平安神宮付近と琵琶湖疏水のほとりまで、南の伏見方面にも走り、電力は疎水の水力発電でまかなった。電力時代の幕開けを象徴するものと言えよう。

何かと話題の多い博覧会であったが、7万3,781人の出品人から16万9,098点の出品を得て、入場者数も113万6,695人に達し、大変な賑わいの中で終了した。また、道路・旅宿の整備が進み、京都の観光都市としての基礎が作られた。

参考文献:

國雄行 『博覧会の時代 : 明治政府の博覧会政策』 岩田書院 2005 <D7-H68>
吉田光邦編 『図説万国博覧会史 : 1851-1942』 思文閣出版 1985 <D7-66>