第3回内国勧業博覧会

世界へアピール

開催期間
:1890(明治23)年4月1日~7月31日
場所
:東京上野公園
入場者数
:1,023,693人

当初は、ウィーン万博副総裁であった佐野常民を中心として、将来の万博開催を目指して少しでも規模を拡大した「アジア博覧会」を、皇紀2550年にあたる1890年に開催する案が構想されていた。しかし、大蔵大臣松方正義らの反対によって、純然たる内国博として第3回内国勧業博覧会が開催されることになった。このような経緯により、内国博ではあったが出展品の販路拡大のために外国人客の誘致に力が入れられ、世界各国に招待状が送られた。最終的には、外国から246人の入場者があった。

不景気・インフルエンザの流行・連日の雨、7月1日には帝国議会衆議院選挙があったなどの影響から、全体の入場者数は伸び悩んだ。そのほかにも、単に西洋の文物というだけでは満足できなくなりつつある民衆に対して、政府はあくまで、第1回以来の娯楽を排除する方針を貫いたことも、影響していたと考えられている。

会場の建坪は9,725坪(3万2,000平方メートル)で、本館のほかに、美術館、農林館、動物館、水産館、機械館、外国製品を並べる参考館からなり、建物全体の面積は、第2回の約1.3倍、出展品数は441,458点と増加した。東京電灯会社が会場内に、日本ではじめての電車となる路面電車を走らせたことが特筆に価する。

官庁出品物は褒賞の審査の対象外とされたので、民業を振興する意図が明確になった。しかし、褒賞については、審査の結果次第では商品の売れ行きに大きな影響が出たため、等数に不満をもった出展者から訴訟が起こることもあった。一方、この博覧会は1888年からの意匠登録制度を促進したことも注目される。政府は意匠条例を社会に認知させる意図のもと、出展物に限り出願手数料と登録料を徴収しないことにしたので、出願数が急増した。

このように様々な新しい動きがあった第3回内国勧業博覧会であったが、不景気なども重なり、出品数の増加に対して、大量の売れ残りが出る結果となった。

参考文献:

國雄行 『博覧会の時代 : 明治政府の博覧会政策』 岩田書院 2005 <D7-H68>
吉田光邦編 『図説万国博覧会史 : 1851-1942』 思文閣出版 1985 <D7-66>