(3)企業の成長と内国勧業博覧会の終焉

第5回内国勧業博覧会 1903(明治36)年 大阪

第5回では、上位受賞者の半数以上を企業が占めており、国内企業の成長を窺うことができる。工業関係の出品は全体の過半数にも上った。

日清戦争において船舶不足を痛感した政府は、1890年代後半から造船業を奨励し、欧米と肩を並べるまでには到らないものの、産業としての発展をみる。三菱造船所、川崎造船所大阪鉄工所の船模型などが受賞しており、受賞理由として、出展品の評価以外に、製作のための機械設備の整備、技術者養成等、業界全般にわたる貢献が触れられている。ほかに、蒸気機関車での受賞も見られる。自動車は、輸入品のデモンストレーションをしている段階だった。

電気分野では、沖牙太郎の電気通信機、日本電気株式会社(米国ウェスタン・エレクトリック社との合弁で1899年設立)の電話機、東京電気株式会社(のちに「東芝」)出展の各種電球が、製品の性能とともに低価格が評価されて賞を得ている。同じく受賞した屋井先蔵の乾電池は当時海外に輸出されていた功績が評価のポイントだったようだ。芝浦製作所による発電機も受賞しているが、こちらの内部部品は輸入品であった。

紡績の分野では、御法川直三郎の十二条繰糸機が出品される。製糸作業効率を向上させるもので、製糸機械国産化への道を開いた。

原動機部門の出展は76点にも及び、海軍技術者の宮原二郎出展の水管式汽罐(ボイラー)が賞を得る。性能もさることながら、溶接や維持が容易、国内で修理・製造が可能というのが大きな利点で、ほどなく軍艦に搭載されるようになる。

なお、外国製品については、この博覧会でようやく自由な出品や販売が許可され、参考館で展示が行われた。日本は1899年に工業所有権の国際的保護を定めたパリ条約に加盟したので、想定を上回る十数か国もの出展があった。この加盟は、同時に、日本がもはや外国の模造には頼れない、ということを意味した。

第5回内国勧業博覧会の出展品

第8部機械 出品状況

分類 機械 出品数 画像
34類 原動機 76 12 サムネイル一覧へ
35類 伝動機、機構 272 -
36類 試験 12 -
37類 電気 723 サムネイル一覧へ
38類 運搬 791 サムネイル一覧へ
39類 喞筒(ポンプ)、揚水等 106 サムネイル一覧へ
40類 乾燥、冷却等 13 サムネイル一覧へ
41類 農林園芸、水産 0 -
42類 採鉱、冶金 3 -
43類 化学工業 68 サムネイル一覧へ
44類 染織工業 189 サムネイル一覧へ
45類 製造 87 サムネイル一覧へ
46類 印刷 47 -
47類 工作 2,154* サムネイル一覧へ
48類 土木建築 54 -
合計 4,595* 31 サムネイル一覧へ
官庁出品 - サムネイル一覧へ

*第47類工作機械器具には、第4回では機械の部に入らなかった工作工具(ヤスリ等)を2,130点含む。

出典:

第五回内国勧業博覧会事務局編『第五回内国勧業博覧会審査報告』長谷川正直 (1904)

参考:

度量衡換算表

  • 伏田清三郎出品のナショナル形石油発動機 標準画像を開く
  • 沖牙太郎出品の岩田送話器 標準画像を開く
  • 東京工業学校出品の一馬力半石油発動機八分一縮図 標準画像を開く
  • 鈴木藤三郎出品の製糖機械 標準画像を開く

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内国勧業博覧会の終わり

日露戦争後の財政難の中で、内国勧業博覧会は結果的に全5回で終わったが、そのわずか25年あまりを振り返ると、紡績から始まり、徐々に大型の機械が国産で作られるようになり、電力の時代も到来、また、個人の発明家による出展から、後には企業が生まれてくる様子が窺える。外国製品や他者の発明から学び、競い合いながら、明治の日本で着実に機械化が進んでいたことを、内国勧業博覧会の出展品にみることができる。

1900年を過ぎると、国内で洋式製鉄が始まるとともに、水力発電と長距離送電が発達し、電気が主な動力源となる。こうした中で我が国は、軍事産業を中心とする工業社会へと変化を遂げていった。

参考文献:

『技術の社会史 第3巻』 有斐閣 1982 <M32-54>
國雄行 『博覧会の時代』 岩田書院 2005 <D7-H68>
鈴木淳 『明治の機械工業』 ミネルヴァ書房 1996 <DL413-G5>
中岡哲郎 『日本近代技術の形成』 朝日新聞社 2006 <M33-H31>
中岡哲郎[ほか]編 『産業技術史 新体系日本史11』 山川出版社 2001 <M33-G31>
『日本の歴史. 近代 1-7』 朝日新聞社 2004 <GB71-H133>