1889年第4回パリ万博

フランス革命100周年

名称
:Exposition universelle
開催期間
:1889年5月6日~11月6日
場所
:パリ(シャン・ド・マルス、トロカデロ、オルセー河岸、アンヴァリッド)
入場者数
:3,235万人

フランス革命から100年の年に行われた万博である。1878年第3回のパリ万博会場であったシャン・ド・マルス公園とトロカデロの丘、それに加えてセーヌ川左岸およびアンヴァリッド前庭が会場になった。シャン・ド・マルスには約312メートルに達するエッフェル塔が建てられ、その後ろにボザール館、自由芸術館、機械館が建設された。

当初、開催に関しては、前回のパリ万博で巨額の赤字が出たことから、反対意見があった。また、「フランス革命」の100周年に行われる万博であっため、立憲君主諸国は参加には積極的ではなく、フランス政府からの招待を正式に受理したのは、日本やアメリカ、メキシコ、ギリシア、モロッコなど29カ国にとどまり、イギリスやロシアなどはフランス政府に対して公式に抗議をしていた。しかしながら、政府の反応とは逆に民間の参加には制約がなかったため、最終的には多くの国からの参加が可能となり、万博における民間の力が明らかになった。

このような状況下の開催では、何か呼び物になる展示やモニュメントが必要であった。そこで最大の呼び物として建設されたのがエッフェル塔であった。エッフェル塔は700近くの設計案から選ばれたエッフェル社により建設された。

シャン・ド・マルスに建設された機械館は、建築家デュテール(F. C. L. Dutert)と技術者コンタマン(V. Contamin)によるもので、幅115メートル、高さ45メートル、長さ420メートルの大建築であり、これまでの建築方法では作り得ない巨大な空間であった。従来から用いられてきた、石造アーチや鉄骨半円アーチとは全く違う「三鉸アーチ」という方法が用いられ、これは、アーチを支える壁体や柱なしで組み立てられるもので、鋼でできたアーチを用いることにより可能になった技術だった。19世紀後半の工業技術と製鋼法の発展により成し得た偉業であった。

一方、セーヌ川を渡ってトロカデロの丘には、オランダのチューリップ畑や日本庭園、薔薇園などが展示され、セーヌ川左岸に沿った細長い展示場およびアンヴァリッドには、諸外国の展示館が約50棟設けられた。その中には、フランスの植民地の風俗を再現したパビリオンも展示された。植民地にある丸太小屋のバザールやカフェなどを再現し、現地人が民俗固有の服装をすることによって、観客たちは植民地の異文化を体験することができた。

会場内ではシャン・ド・マルスから小型電車が10分おきに発車し、周辺約3キロの会場を電車から見て回ることができた。エッフェル塔は夜には三色のサーチライトでライトアップされ、会場はエディソン(T. A. Edison)の発明である白熱電灯で照らし出され、万博史上初の夜間開場が実現した。午後9時からは毎日シャン・ド・マルスの庭園で噴水と照明による華やかなショーが催された。

また、このパリ万博を特徴づけるものとして、数々の国際会議が平行して行われたことがある。そのテーマは「芸術・文学・科学・経済・社会」であった。国際会議の開催は、それ以降の万博の伝統となった。

参考文献:

平野繁臣 『国際博覧会歴史事典』 内山工房 1999 <D7-G26>
吉田光邦[述] ; 日本放送協会編 『万国博覧会 : その歴史と役割』 日本放送出版協会 1985 <D7-E82>
吉田光邦 『万国博覧会 : 技術文明史的に』 改訂版 日本放送出版協会 1985 <D7-67>
Finding, J. E., Pelle, K. D. ed.: Historical dictionary of world's fairs and expositions, 1851-1988 (Greenwood Press, 1990) <D7-B3>