1873年ウィーン万博

明治政府初参加

【コラム】ウィーン万博とジャポニスム

ジャポニスムは、1850年代にパリのブラックモン(F. Braquemond)が陶磁器の詰め物に使われていた北斎漫画を目にしたことが始まりと言われている。日本と西洋文明が出会った19世紀後半、万博もその舞台となった。

1862年の第2回ロンドン万博では日本コーナーが設けられ、イギリスの駐日公使であったオールコック(R. Alcock)の収集品が展示された。また、1867年の第2回パリ万博には幕府と薩摩藩、佐賀藩が出展し、日本女性3人がキセルで一服する様子などが見られる茶店が人気であった。

明治政府がはじめて正式に参加した万博は、1873年のウィーン万博である。新しい日本を全世界にアピールしなければならないという使命はこれまでの万博よりも強くならざるをえなかった。実際に出展された品々はかなり広範囲にわたっている。浮世絵、錦などの染織品、漆器、櫛、人形などの工芸品をはじめ、仏像、楽器、刀剣、甲冑、伊万里・瀬戸・薩摩焼などの陶磁器に至る美術用品。さらに一般庶民が日常使用している生活雑器、家具、道具、農耕具、漁具、仏具にいたる生活用品までジャンル分けされ展示された。
また、上記の中には正倉院の宝物(楽器や刀剣など)や山梨県御嶽神社の「御神宝水晶玉」、鎌倉鶴岡八幡宮に所蔵されていた「籬菊螺鈿手箱」など国宝級のものも多数含まれていた。
その他、大型出品物として、1,300坪ほどの敷地に神社と日本庭園を造り、白木の鳥居、奥に神殿、神楽堂や反り橋を配置した。産業館にも浮世絵や工芸品を展示し、名古屋城の金鯱、鎌倉大仏の模型、高さ4メートルほどの東京谷中天王寺五重塔模型や直径2メートルの大太鼓、直径4メートルの浪に竜を描いた提灯などが人目を引いた。

これらの選定は、日本人が独自に行ったわけではない。オーストリアの公使館員であるシーボルト(H. Siebold)により推薦された、ドイツ人のお雇い外国人ワグネル(G. Wagener)の指導によるものであった。ワグネルは、日本では近代工業が未発達であるため、西洋の模倣でしかない機械製品よりも、日本的で精巧な美術工芸品を中心に出展したほうがよいと判断し、日本全国から優れた工芸品を買い上げた。また、シーボルトは東洋のエキゾチシズムをアピールするには、人目を引く大きなものが良いと勧めたのである。

彼らの目論見どおり、神社と日本庭園は大いに評判となり、展示物も飛ぶように売れ、うちわは1週間に数千本を売りつくした。皇帝フランツ・ヨゼフ一世と皇后エリーザベトも来場し、開催までに完成が間に合わなかった反り橋の渡り初めを行った。一行はカンナの削りくずに興味を持ち、女官に丁寧に折りたたんで持ってかえらせたと言われている。万博終了時には、イギリスのアレキサンドル・パーク商社が日本庭園の建物のみならず、木や石の全てを買いあげるほどであった。

ウィーンでのジャポニスムはその後、1890年代の分離派、クリムト(G. Klimt)の日本文様を意識した絵画などに受け継がれてゆく。

参考文献:

鹿島茂 「パリ万博絶景博物館(3) トロカデロのジャポニズム」 (『施工』 357号 1995.7 <Z16-72>)
田中芳男, 平山成信編 『澳国博覧会参同記要』 森山春雍 1897 <YDM42151>
西川智之 「ウィーンのジャポニスム(前編)1873年ウィーン万国博覧会」 (『言語文化論集』 27巻2号 2006 <Z12-503>)
橋爪紳也監修 『万国びっくり博覧会 : 万博を100倍楽しむ本』 大和書房 2005 <D7-H48>
吉田光邦 『万国博覧会 : 技術文明史的に』 改訂版 日本放送出版協会 1985 <D7-67>