第2部 近現代

第2章 歴代首相

伊藤博文(いとう ひろぶみ) 1841-1909

伊藤博文肖像政治家。初代・第5代・第7代・第10代内閣総理大臣。吉田松陰松下村塾しょうかそんじゅくに学び、イギリス留学後、討幕運動に活躍。明治政府では、内閣制度を創設して、明治18(1885)年初代内閣総理大臣となり、帝国憲法の制定、諸制度の確立に尽力した。日清戦争をはさみ、組閣4度に及んだ。枢密院議長、立憲政友会総裁などを歴任し、明治38(1905)年初代韓国統監となった。明治42(1909)年、ハルビンで韓国の独立運動家安重根に暗殺された。

52 伊藤博文書簡[草稿]明治15(1882)年8月9日【伊藤博文関係文書(その1、書類の部)22】「伊藤博文書簡(草稿)」の折りたたみ

欧州出張中の伊藤から、右大臣岩倉具視に宛てた書簡(草稿)。「明治14年の政変」の結果、明治政府は大隈重信が唱えるイギリス型の議院内閣制の導入を見送り、君主大権を残すドイツ型の憲法を導入することとなった。伊藤は明治15(1882)年3月から翌年8月まで憲法調査のため欧州に派遣され、ベルリン大学教授のグナイスト、ウィーン大学教授のシュタインなどから学び、帰国後、帝国憲法の制定に着手した。書簡では、今しばらくはウィーンに滞在してシュタインの議論を聞くつもりであることなどが書かれている。

「伊藤博文書簡(草稿)」

黒田清隆(くろだ きよたか) 1840-1900

黒田清隆肖像政治家。第2代内閣総理大臣。坂本龍馬らと薩長同盟の成立につくし、戊辰戦争では参謀として従軍し五稜郭を攻撃、榎本武揚を降伏させたが、榎本の助命にも尽力した。その後北海道の開拓を指揮し、明治9(1876)年には特命全権弁理大臣として日朝修好条規を締結した。明治21(1888)年に第2代内閣総理大臣になり、大日本帝国憲法の発布に当たったが、欧米各国との条約改正交渉に失敗して翌年辞任した。元老の1人である。

53 黒田清隆書簡 明治14(1881)年8月21日【憲政資料室収集文書272】「黒田清隆書簡」

開拓使長官及び参議である黒田から、同じく参議の西郷従道、川村純義に宛てた「開拓使官有物払下問題」についての書簡。開拓使は、その官有物を官吏や政商に対し、極端な好条件で払い下げようとして世論の激しい批判を受けていたが、その一方政府内では大隈重信が福沢諭吉や、払下げに対立的な利害関係を持つ三菱と手を結んで、払下げ反対の世論を煽っているのだという説が流布されていた。この書簡で黒田は、大隈や三菱などの術中に陥らないよう警告している。

「黒田清隆書簡」の10コマ目

「黒田清隆書簡」の11コマ目
「黒田清隆書簡」の翻刻

山県有朋(やまがた ありとも) 1838-1922

山県有朋肖像政治家。第3・第9代内閣総理大臣。松下村塾しょうかそんじゅくに学び、高杉晋作らと尊王攘夷運動に参加した。維新後はヨーロッパの兵制を視察し、徴兵令の制定にあたるなど、陸軍の創設において活躍した。初代参謀本部長、内務大臣を経て2度組閣し、以後も元帥、元老として内政及び外交で大きな発言力を持った。

54 山県有朋書簡 大正10(1921)年2月12日【田中義一関係文書(所蔵)141】「山県有朋書簡」の外箱

山県から同郷の田中義一に宛てた、いわゆる「宮中某重大事件」に関連する書簡。皇太子裕仁親王の婚約者久邇宮良子くにのみやながこ女王に色覚異常が遺伝している可能性があると判明し、色覚異常の血統が皇室に入ることをおそれた元老の山県らは婚約解消を図った。この一件は、久邇宮家からの反発に民間右翼による反山県運動も加わり、深刻な政治問題に発展した。結局、この書簡が書かれる2日前に婚約は内定通りと発表されて問題は落着した。陰謀説まで流布された山県は「勤王論に起り、勤王論において討死するは、仮令たとい一敗を取りても諭快(原文ママ)の感を抱き候」とその思いを綴っている。

「山県有朋書簡」
「山県有朋書簡」の翻刻

松方正義(まつかた まさよし) 1835-1924

松方正義肖像政治家。第4代・第6代内閣総理大臣。島津久光の側近になったのち、大久保利通に認められ、日田県知事を経て中央政界に入った。大蔵卿、大蔵大臣として紙幣整理、増税、日本銀行の設立、金本位制の実施など、「松方財政」と呼ばれる金融政策を行った。この間2度内閣を組織し、晩年は山県有朋の死後、元老として発言力を持った。

55 松方正義書簡 明治14(1881)年10月28日【伊藤博文関係文書(その1、書簡の部)164-181】「松方正義書簡」の折りたたみ

大蔵卿に就任直後の松方から、伊藤博文に宛てた書簡。伊藤から借用した内海忠勝の書簡を、昨夜返せなかった非礼を詫びている。同時に「去る十一日の一挙は誠に邦家のため永遠なるご尽力」という記述があり、これは10月11日、東北・北海道巡幸から帰った天皇のもとで御前会議を開き、開拓使官有物払下げの取消しと、大隈重信およびその系統の官僚の罷免、明治23年までの国会開設を決定した、いわゆる「明治14年の政変」のことと思われる。松方は大隈とは財政政策で対立があり、伊藤もまた大隈とは国会開設方針で対立があった。

「松方正義書簡」の2コマ目

「松方正義書簡」の3コマ目
「松方正義書簡」の翻刻

豆知識

字を書かなかった人

大隈重信肖像大隈重信は「字を書かなかった人」として有名です。大隈重信肖像閣議書など公文書の署名の他には、17才のときに先輩に宛てた寄せ書きと、伯爵を叙された際の宮内大臣伊藤博文宛の「受書」しか知られていません。憲政資料室所蔵のものも含め、他の大隈名の文書は代筆と考えられています。
大隈が字を書かないことは生前から有名で、亡くなった直後に発行された『大隈重信逸話集 世界の大偉人』(岡本瓊二著【394-200『大隈重信逸話集 世界の大偉人』の表紙)には、最初の見出しが「もう、一生字は書かぬ」となっていて、「侯が字を書くことが嫌ひであったという云ふことは、もう誰一人知らぬものはありませんが」と始まっています。それほど有名なことであったため、周りの人はなんとか字を書かせようとし、逆に警戒して書かなかったともいわれています。書かなくなった理由については、「幼少期に字がうまい友人がおり、負けるのが嫌だった」などの説があります。

西園寺公望(さいおんじ きんもち) 1849-1940

西園寺公望肖像政治家。第12代・第14代内閣総理大臣。徳大寺家に生まれ、西園寺家に養子に入り家督を相続した。フランスに10年間留学、帰国後は各国公使、貴族院副議長、文部大臣、外務大臣、大蔵大臣などを歴任したのち、2度内閣を組織した。桂太郎と交互に政権を担当したことから「桂園時代」と呼ばれる。松方正義の死後、最後の元老として後継総理大臣の推薦などに影響力を持った。

56 西園寺公望書簡 明治38(1905)年12月30日【桂太郎関係文書47-1】「西園寺公望書簡」の封筒

西園寺から桂太郎に宛てた書簡。明治末期には、立憲政友会総裁の西園寺と、山県閥の流れをくみ官僚、貴族院、軍部を掌握していた桂が交互に政権を担当する慣行がみられた。この書簡は、両者の調整の過程を物語る。桂内閣は12月21日に総辞職したが、次期首相の西園寺は、この書簡の中で松岡康毅を農商務相候補に、山県有朋の養嗣子山県伊三郎を逓相候補に挙げ、桂の意向を事前に確認している。翌年1月7日に成立した第1次西園寺内閣では、政友会からの入閣は西園寺を含めて3名に過ぎなかった。

「西園寺公望書簡」
「西園寺公望書簡」の翻刻

豆知識

封筒は意外に新しい

封筒の歴史はそれほど古くありません。天保年間(1830-1844)頃に定着したといわれています。松浦静山まつらせいざんの随筆集『甲子夜話かっしやわ』(天保年間)巻29には、当時から20年ぐらい前の話として「中以下の所にて略して封筒を製し(略)中以上の人は用ゆるなし」と、中流階級以下で流行したことが記されています。
封筒がない時代、または封筒を使わない場合は、紙を折りたたんで、端を折ったりねじったり、またはたたんだまま裏に「〆」と書くなどしていました。
西洋風の封筒が入ってきたのは日露戦争後のことで、大正時代には絵入りの様々なものが発売されました。

『封筒譜北斎状袋』の10コマ目
北斎作とされるものを集めた貼り込み帖
『封筒譜 北斎状袋』【本別7-553『封筒譜北斎状袋』の表紙

原敬(はら たかし) 1856-1921

原敬肖像政治家。第19代内閣総理大臣。父は南部藩士。外務省に入り、陸奥宗光外相の下で外務次官を務める。退官後の明治33(1900)年に立憲政友会に入党し、衆議院議員に当選。第1次・第2次西園寺内閣などで内務大臣を務めた後、立憲政友会総裁となり、大正7(1918)年に衆議院に議席を持つ最初の総理大臣となった。族籍が平民だったことから「平民宰相」と呼ばれ、国民の支持を集めた。初の本格的政党内閣を成立させ、交通の整備、教育の拡張など積極政策を展開したが、大正10(1921)年、東京駅で暗殺された。

57 原敬書簡 大正3(1914)年6月18日【井上馨関係文書246-4】「原敬書簡」

原から長州閥の元老である井上馨に宛てた書簡。西園寺公望の立憲政友会総裁辞任を受け、自分にその跡を継ぐよう打診があったことを伝えて今後の支援を依頼している。原は南部藩の出身であり、明治維新後に薩長藩閥勢力から朝敵と蔑まれた原体験から、藩閥政府への反骨心を持ち続けたといわれる。その一方で、民主的な政党政治の重要性を認識し、政党勢力の拡張のためには藩閥有力者との協調関係も必要であると考えていた。この書簡からもそうした原の現実的政治家としての一面がうかがえる。

「原敬書簡」
「原敬書簡」の翻刻

犬養毅(いぬかい つよし) 1855-1932

犬養毅肖像政治家。第29代内閣総理大臣。明治15(1882)年立憲改進党の結成に加わり、明治23(1890)年衆議院議員に当選した(以後19回連続当選)。立憲国民党や革新倶楽部を結成するなど、政党政治の中核を担うとともに、孫文などの亡命政治家を援助した。昭和6(1931)年戦前最後の政党内閣を組織したが、翌年暗殺された(五・一五事件)。書家としても有名である。

58 犬養毅書簡 〔大正14(1925)~昭和6(1931)年頃〕7月6日【牧野伸顕関係文書(書簡の部)124-1】「犬養毅書簡」の封筒

犬養から、大久保利通の次男で内大臣の牧野伸顕に宛てた書簡。原田庄左衛門という人物を紹介する内容であり、犬養が70代のときに書かれたものである。原田は明治2(1869)年に博文堂を創立し、そこでの出版事業や資金援助を通して犬養、尾崎行雄らが唱える立憲政治や国会開設の要求運動を支援した。また、原田の弟の小川一真は写真史における著名な人物。板垣退助の娘婿であり、米国で写真術を学び、宮中に参内して皇族の撮影を行うことも多かった。

「犬養毅書簡」

近衛文麿(このえ ふみまろ) 1891-1945

近衛文麿肖像政治家。第34代・第38代・第39代内閣総理大臣。五摂家の近衛家の第30代当主。貴族院議長などを経て、昭和12(1937)年に47歳で内閣総理大臣に就任したのをはじめとし、計3度内閣を組織した。国家総動員法の施行、日独伊三国同盟の締結、大政翼賛会の設立など戦時体制の強化を進めた。敗戦後、戦犯指定を受け、服毒自殺した。

59 近衛文麿書簡 昭和2(1927)年7月10日【牧野伸顕関係文書(書簡の部)224-1】「近衛文麿書簡」の封筒

近衛から内大臣の牧野伸顕に宛てた書簡。書簡の中で近衛は「一昨日お話の件につき、昨朝出立、興津に参り西公に面会」と述べている。具体的な相談内容は不明であるが、西公とは西園寺公望(公爵)のことであり、静岡の興津には西園寺の別邸坐漁荘ざぎょそうがあった。西園寺は松方正義亡きあと「最後の元老」と呼ばれ、国家の重要政策の決定や首相選任にあたって天皇の諮問を受け、政界に対して承認や助言を与える立場にあった。

「近衛文麿書簡」

豆知識

手紙は郵送するのではなく、使いが持っていくもの

本電子展示会では手紙をたくさん紹介していますが、この中で、郵送されたものはそれほど多くはありません。
かつて、手紙は使いが手で持って行くものでした。かなり長い距離を歩いて持って行ったようです(飛脚は幹線ルートが主で、高価かつ時間がかかるため、日常的に頻繁にやりとりするには向きませんでした)。「この手紙を持たせた人はこんな人物です」と書いてある手紙もありますし(掲載資料21柳亭種彦)、使いの者が持ってきた手紙の返事を、その人を待たせておいて急いで書いたものもあります(掲載資料17平田篤胤)。
明治4(1871)年に郵便制度が始まった後も、その習慣は続きました。手紙が、実際に人を訪ねることを模している「略式の訪問」の意味があったからです。また、秘密にしておきたい話は信用できる使いが持っていく方が確実でした。本電子展示会の掲載資料の中では、大正時代までは使いに持たせたものが多いようです。

東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみや なるひこおう) 1887-1990

東久邇宮稔彦王肖像政治家。第43代内閣総理大臣。敗戦直後の昭和20(1945)年8月17日に最初の皇族内閣を組織し、連合国に対する降伏文書の調印、陸海軍の解体などの終戦処理にあたったが、一方で連合国側の政策に抵抗し、歴代内閣在任最短期間の54日で総辞職した。昭和22(1947)年10月に皇族の身分を離れた後は東久邇稔彦を名乗った。首相就任後の記者会見(8月28日)で、国の再建と国内団結の第一歩として「全国民総懺悔ざんげ」の必要性を語ったことでも知られる。

60 東久邇宮稔彦王書簡 昭和7(1932)年頃【荒木貞夫関係文書21】「東久邇宮稔彦王書簡」の封筒

陸軍少将の東久邇宮稔彦王から、陸軍大臣の荒木貞夫に宛てた書簡。自分の人事に関して、参謀本部ではなく満洲独立守備隊への異動を希望している。これは、当時の東久邇宮が陸軍の満蒙占領計画に寄せていた強い関心が影響したものと思われ、こうした東久邇宮の軍人としての積極的な姿勢は、陸軍内の一部に共感を得ていた。昭和20(1945)年8月14日のポツダム宣言受諾を前に、日本の首脳部が東久邇宮に首相就任の打診をしたのも、皇族の権威とそれまでの陸軍との人脈により陸軍を抑えていくことを期待してのものであった。

「東久邇宮稔彦王書簡」の5コマ目「東久邇宮稔彦王書簡」の4コマ目

豆知識

毛筆からペン字へ

万年筆が初めて輸入されたのは明治17(1884)年のことでした。当時は現在のような先が割れたペン型ではなく針金のようなペン先でしたが、間もなくペン型のものも登場します。日清戦争時には、船の上では毛筆よりも万年筆の方が書きやすいと重宝され、日露戦争では将校クラスには現物が支給されたそうです。また、紙に関しても、明治30年から40年代に国内での洋紙の生産量が和紙を上回ります。大正時代にはペン習字が始まり、こうして、和紙に毛筆というスタイルから、洋紙に万年筆(=ペン)というスタイルに変わっていきました。
1950年代には、就職活動における履歴書にペン字横書きを用いようという運動が東大生によってはじまり、結果としてJISの履歴書が横書きに変更されます。「毛筆でないと個性が伝わらない」という意見もありましたが、「毛筆は効率が悪い」「毛筆で書ける学生はすでにいない、代書屋に頼んでいるのが実態」という意見が大半で、すでに毛筆が一般的でなくなっていたことがわかります。
ちなみに、ボールペンについて現在のように細い管に粘度の高いインクを入れたものが開発されたのは昭和18(1943)年、ハンガリーでのことでした。

吉田茂(よしだ しげる) 1878-1967

吉田茂肖像政治家。第45代・第48代・第49代・第50代・第51代内閣総理大臣。外交官、政治家である牧野伸顕の娘婿。外務省に勤務し、外務次官、駐伊・駐英大使などを経て、東久邇宮内閣及び幣原内閣で外務大臣を務める。昭和21(1946)年の第1次内閣組織後、計5回総理大臣となり、その間サンフランシスコ講和条約・日米安全保障条約の締結を行った。「ワンマン」と呼ばれる個性で、引退後も政界に大きな影響力を持った。

61 吉田茂書簡 昭和22(1947)年5月3日【牧野伸顕関係文書(書簡の部)659-54】『吉田茂書翰牧野伸顕宛』の封筒(電子展示会「史料にみる日本の近代」)

首相で自由党党首の吉田から、岳父である牧野伸顕に宛てた書簡。昭和22(1947)年5月3日の新憲法施行を前に、最初の国会を組織するため、4月20日に初めての参議院選挙、同25日に戦後2回目の衆議院選挙が実施された。衆院選では、いずれの政党も過半数を獲得できず、第1党となった社会党は、委員長の片山哲を首班とし、民主党および国民協同党と連立内閣を組織することとなった。選挙後、政権を渡す決意をした吉田は、「淡々たる心境にて負け振のよいところを見するか大切」と社会党が出て来やすいよう潔く退陣するつもりである旨を述べている。

『吉田茂書翰牧野伸顕宛』(電子展示会「史料にみる日本の近代」)
「吉田茂書簡」の翻刻

鳩山一郎(はとやま いちろう) 1883-1959

鳩山一郎肖像政治家。第52代・第53代・第54代内閣総理大臣。東京市会議員から衆議院議員となり、犬養斎藤両内閣の文部大臣などを歴任。戦後に日本自由党を結成し総裁となるが、昭和21(1946)年組閣寸前に公職追放される。政界復帰後、日本民主党の総裁として内閣を組織。在任中に自由民主党が結成され、初代総裁となる。昭和31(1956)年に日ソ共同宣言に調印し、国交回復を実現した。

62 鳩山一郎書簡 昭和15(1940)年9月2日【安藤正純関係文書571-4】「鳩山一郎書簡」の封筒

鳩山から安藤正純に宛てた書簡。昭和15(1940)年10月の大政翼賛会結成をひかえ、新体制準備会の動向が注目されていた頃の書簡である。安藤は立憲政友会幹事長も務めた政治家であったが、大政翼賛会には参加せず、昭和17(1942)年のいわゆる翼賛選挙でも鳩山とともに非推薦で立候補して当選した。この書簡では、安藤が新体制に反発する様子を「君の面目躍如として眼前に見る」と称えながらも「しかし時は必ず来る」と、今は自制も必要であることを説いている。鳩山自身は敗戦までの数年間、軽井沢で隠遁的な生活を送った。

「鳩山一郎書簡」
「鳩山一郎書簡」の翻刻