第2部 近現代

第5章 明治の経済人

岩崎弥太郎(いわさき やたろう) 1834-1885

岩崎弥太郎肖像明治期の実業家。土佐藩出身で、同藩の吉田東洋や後藤象二郎らに取り立てられ、藩の貿易に従事した。藩営の土佐商会等を経て、三菱商会を創設。大久保利通、大隈重信らと関係を深め、政府の手厚い保護のもとで独占的に海運業を行い、三菱財閥の基礎を築いた。

70 岩崎弥太郎書簡 明治10(1877)年3月4日【上野景範関係文書(寄託)7-2-2】「岩崎弥太郎書簡」の折りたたみ

岩崎から英国在勤の特命全権公使上野景範かげのりに宛てた書簡である。前半では、英国に留学する三菱社員の子息ら2人に対する庇護を依頼しており、後半では、鹿児島出身の上野にとっては特に気にかかっていたであろう、西南戦争の戦況を伝えている。当時三菱は、この社船38隻を投じて政府軍の軍事輸送に協力していたため、岩崎には戦況に関する多くの情報が入っていたものと思われる。この軍事輸送による功績は、三菱が一大産業資本として飛躍する契機になったといわれる。

「岩崎弥太郎書簡」
「岩崎弥太郎書簡」の翻刻

コラム留学生と男爵薯

岩崎弥太郎の手紙に登場する留学生の「龍吉」は、岩崎の片腕として活躍した川田小一郎の息子である。21歳の時にイギリスに留学した龍吉は、当地の女性ジェニーと出会い恋仲になった。しかし、結婚はかなわずに帰国。その後は造船業界のために長く奔走するも、かつての恋人のことは忘れがたく、後年、イギリスで食べた恋人との思い出の味であるジャガイモを北海道に普及させることに努めた。そして、そのとき龍吉が男爵になっていたことから、彼が栽培した品種は「男爵薯」と呼ばれるようになった。
掲載した手紙は、龍吉が留学する直前のもの。岩崎はそのなかで、イギリス在勤の特命全権公使、上野景範に対し、これから新潟丸に乗船してイギリスに向かう龍吉ら留学生に対する庇護を求めている。この先に自分を待ち受ける運命を知らない龍吉は、英国留学への夢を膨らませていたのだろうか。

渋沢栄一(しぶさわ えいいち) 1840-1931

渋沢栄一肖像明治・大正期の実業家。一橋家に仕えて幕臣となり、パリ万国博覧会への幕府使節団に加わって欧米を視察、帰国後は新政府に出仕し大蔵省を経て、第一国立銀行を創立した。これを足掛かりとして王子製紙、東京証券取引所など、500以上もの企業の設立に携わった。「日本資本主義の父」といわれる。

71 渋沢栄一書簡 明治28(1895)年2月13日【榎本武揚関係文書54-6】「渋沢栄一書簡」

渋沢から農商務大臣の榎本武揚に宛てた書簡。新しい製紙工場を設立するにあたり、用地決定のための調査を行う許可を求めている。この当時、日清戦争などにより新聞原紙の需要が増え、洋紙が不足していた。渋沢が設立した王子製紙では、洋紙の原料として当時使われていた襤褸ぼろきれなどに替わり木材パルプを採用するとともに、新工場を建設することで対応しようとしたことがわかる。

「渋沢栄一書簡」
「渋沢栄一書簡」の翻刻

大倉喜八郎(おおくら きはちろう) 1837-1928

大倉喜八郎肖像明治・大正期の実業家。幕末・維新の動乱期に鉄砲を販売して利益を得た後、大倉組商会を設立して貿易事業を始め、諸外国との貿易を通じて大倉財閥を確立した。帝国ホテルや帝国劇場、大倉商業学校(のちの東京経済大学)などの設立にも携わった。

72 大倉喜八郎書簡 明治34(1901)年6月28日 【伊藤博文関係文書(その1)243-4】「大倉喜八郎書簡」の封筒表書き

大倉から伊藤博文に宛てた書簡。横浜の「山ノ手160番館」のジャクソン宅を訪問する日時について伊藤に連絡する内容であり、伊藤の意を受けた大倉が、あらかじめ電話で先方との日程調整を行ったことを示す記述がある。書簡に登場するジャクソンは、英国資本の有力銀行、香港上海銀行の頭取トーマス・ジャクソンと思われる。ジャクソンは明治4(1871)年から4年間にわたり同行横浜支店の支配人を務めた経歴をもち、頭取となった後も日本の公債引受けなどを推進した。

「大倉喜八郎書簡」「大倉喜八郎書簡」の封筒裏書き
「大倉喜八郎書簡」の翻刻