第2部 近現代

第1章 幕末・維新の人々(1)

吉田松陰(よしだ しょういん) 1830-1859

吉田松陰肖像幕末の思想家、教育者。長州藩士。通称は寅次郎。欧米遊学を志し、安政元(1854)年に下田に停泊中のペリーの艦隊に同行を申し出たが断られ、自首して入獄。出獄後、萩の自宅内に松下村塾しょうかそんじゅくを開き、高杉晋作伊藤博文山県有朋らを門下生とした。安政の大獄で刑死。

37 吉田松陰書簡 安政6(1859)年3月【井上馨関係文書634-2】「吉田松陰書簡」

幕府の日米修好通商条約調印をめぐる過激な言動により萩の野山獄に収容された松陰から、交流が深かった人(来島又兵衛・小田村伊之助・桂小五郎(木戸孝允)・久保清太郎)に宛てた書簡。死を覚悟した心境を吐露するとともに、自分の指示による伏見要駕策(参勤交代途上の長州藩主毛利敬親たかちかを伏見で奪取し、孝明天皇に謁見させ、攘夷の勅命を得ようとした計画)の失敗により投獄された愛弟子入江九一(杉蔵)について述べている。入江は、松陰の他の門弟たちが反対する同策に賛成し、実行を計画したが、老母の扶養と家の存続のために計画の実行を直前で弟に譲り、自らは家に残ったにもかかわらず投獄されてしまった。しきりに放免を求める入江について、天下国家の大事を前にして母子の情を訴える姿に不満を示しつつも、一定の理解を示そうとしている。入江はこののち出獄するも、禁門の変で久坂玄瑞らとともに戦い重傷を負って自刃する。

「吉田松陰書簡」
「吉田松陰書簡」の翻刻

豆知識

手紙の続きは、一番最初に戻って書く

書き足りないことがあれば、次の紙を使うのではなく、最初に戻って書く場合もありました。これを「返し書き」といいます(例:下田歌子)。そのため、手紙の書き始めを数cmあけて書き始めるのが作法でした。もし何も書くことがなければ「以上」とだけ書いて、返し書きがないことを示す場合もあります。さらに、返し書きでそのスペースも埋まってしまったら、すでに書いてある行の間をぬって書くこともありました(例:細川ガラシャ)。
吉田松陰の書簡では、追伸で書き足りないことを、すぐ前のスペースに戻って、しかも向きを逆に書いています。これも返し書きの一種といえるでしょう。

坂本龍馬(さかもと りょうま) 1835-1867

坂本龍馬肖像幕末の志士。名は直柔なおなり。才谷梅太郎とも名乗った。土佐に生まれたが、脱藩して諸国を放浪した後、江戸で勝海舟の門下に入り、開国論に目覚める。亀山社中(のちの海援隊)を結成して貿易業に従事する一方、西郷隆盛木戸孝允の間を取り持って薩長同盟を成立させ、幕府の大政奉還を実現させたが、京都の近江屋で中岡慎太郎とともに暗殺された。

38-1 新政府綱領八策(『亡友帖』のうち)慶応3(1867)年11月【石田英吉関係文書1-5】『亡友帖』のうち「新政府綱領八策」

「船中八策」をもとに龍馬が起草して土佐藩重役に示した新国家の政体案。「船中八策」とは、慶応3(1867)年に土佐藩士後藤象二郎が前藩主山内容堂に大政奉還の進言を行った際、龍馬と作成したものであるという。大政奉還のほか、議会制度、官制、外交、大典の撰定、軍制など後の明治新政府の基礎となる建言を含んでおり、同年10月に土佐藩から幕府へ提出された大政奉還に関する建白書も、この「船中八策」に基づいて作成された。掲載資料の伏字部分「○○○」には容堂説、徳川慶喜説などがあり、今も通説は定まっていない。

『亡友帖』のうち「新政府綱領八策」
「新政府綱領八策」の翻刻

中岡慎太郎(なかおか しんたろう) 1838-1867

中岡慎太郎肖像幕末の志士。土佐生まれ。土佐勤王党結成に参加したが、土佐藩によって弾圧されると、脱藩し、坂本龍馬とともに薩長同盟締結に尽力した。のちに土佐藩より脱藩の罪を許され、龍馬の海援隊に続き陸援隊を結成し隊長となったが、龍馬とともに近江屋で暗殺された。

38-2 中岡慎太郎筆跡(『亡友帖』のうち) 慶応3(1867)年正月【石田英吉関係文書1-15】『亡友帖』のうち「中岡慎太郎筆跡」

中岡慎太郎は慶応3(1867)年1月に大宰府に赴き、文久3(1863)年8月18日の政変で京都から追放されていた七卿のうち、当時大宰府に滞在していた三条実美三条西季知さんじょうにしすえとも東久世通禧ひがしくぜみちとみ四条隆謌しじょうたかうた壬生基修みぶもとながの5人に孝明天皇の死を伝えた。そこで詠んだ七言絶句である。

『亡友帖』のうち「中岡慎太郎筆跡」
中岡慎太郎筆跡の翻刻

高杉晋作(たかすぎ しんさく) 1839-1867

高杉晋作肖像幕末の志士。長州生まれ。松下村塾しょうかそんじゅくで学んだのち、尊王攘夷運動に参加し、英国公使館の焼き討ちなどに関与した。文久3(1863)年に下関防衛のために奇兵隊を創設、第2次幕長戦争で幕府軍を撃退するなど活躍したが、維新前に病没した。

38-3 高杉晋作書簡(『亡友帖』のうち)〔慶応元(1865)年頃〕【石田英吉関係文書1-7】『亡友帖』のうち「高杉晋作書簡」

署名に“谷”とあり、藩命により「谷潜蔵」と改名した慶応元(1865)年9月以降の筆であろう。同世代の石田に「激論を申し述べ」たことについて「病客(病人)は気短にて兎角失敬」と詫びている。松下村塾において高杉の弟分であった伊藤博文は、のちに高杉の記念碑の碑文で「動けば雷電のごとく、発すれば風雨のごとし」とその人柄を評しているが、この書簡からも、熱しやすく奔放な高杉の人柄が垣間見える。

『亡友帖』のうち「高杉晋作書簡」
「高杉晋作書簡」の翻刻

コラム亡友帖

石田英吉が、武田耕雲斎、木戸孝允坂本龍馬中岡慎太郎高杉晋作など交友のあった人物15人の書簡や漢詩(草稿)など19点の筆跡を一つの巻物に貼り込んだもの。
石田は土佐に生まれ、勤王運動に奔走した志士であった。天誅組の挙兵に加わり、のち奇兵隊、海援隊に加入、戊辰戦争にも従軍した。維新以後には新政府に仕え、農商務省次官、高知県知事、明治29(1896)年に男爵、のちに貴族院議員となる。
石田がこの巻物を作成した、あるいは資料を集めた動機はつまびらかではないものの、高知県知事在任中の明治26(1893)年に、内務省からの訓令により維新の功労者の調査を行ったことも影響していると思われる。また、明治30(1897)年には、元治元(1864)年9月5日に処刑された土佐勤王党の二十三士をしのび、記念碑の建立に尽力している。当時、石田はこの二十三士について資料を集めるとともに懐旧談を遺しており、若き頃の同志の回顧やその事績を伝えることに積極的であったといえよう。
石田に限らず、ある程度社会が落ち着いてきた明治20年代以降になると、幕末維新期の活動について元幕臣や旧藩関係者によって、聞き書きや回顧がなされるようになってきていた。
石田が残した文書(石田英吉関係文書)には、前述の二十三士にかかわる「海南殉難士略伝」といった記録や天誅組に関連する資料類「大和日記」も遺されており、後世に維新期の事績を伝えようとする石田の思いがうかがえる。

<その他の「亡友帖」に筆跡がある人物(掲載順)>

藤田東湖

武田耕雲斎(たけだ こううんさい) 1803-1865

幕末の水戸藩士。水戸藩改革派の主流として活躍したのち、尊王攘夷の急進派である天狗党の首領となって京都を目指したが、金沢藩に降伏して処刑された。

木戸孝允

高松鶴吉(たかまつ つるきち) 1807-1876

幕末の儒学者。土佐で私塾を開き、中岡慎太郎や石田英吉を輩出した。坂本龍馬の姉の千鶴の夫であり、長男が坂本家の本家を、二男が龍馬の後を継いだ。

間崎哲馬(まさき てつま) 1834-1863

幕末の土佐藩士。土佐勤王党に参加し、藩政改革を目指したが、前藩主である山内容堂の怒りをかい、自刃を命じられた。

大山綱良(おおやま つなよし) 1825-1877

幕末の薩摩藩士、官僚。寺田屋事件では過激派藩士粛清の中心となった。維新後、鹿児島県令在任中の西南戦争で西郷隆盛を支援したため、処刑された。

門田為之助(かどた ためのすけ) 1838-1867

幕末の土佐藩士。土佐勤王党に参加し、勝海舟の門下生として坂本龍馬らと交流があった。

河上彦斎(かわかみ げんさい) 1834-1872

幕末の熊本藩士。尊王攘夷派に参加し、佐久間象山を暗殺したことなどから「人斬り彦斎」とも呼ばれた。明治3(1870)年反政府陰謀の嫌疑で捕らえられ、その後処刑された。

吉賀牧太(よしが まきた) 1844-1868

長州藩出身。戊辰戦争の際に越後に出陣したが、病没した。

伊達千広(だて ちひろ) 1802-1877

幕末の和歌山藩士、国学者、歌人。史書「大勢三転考」を記して名を残した。陸奥宗光の実父。

長谷川鉄之進(はせがわ てつのしん) 1822-1871

幕末の尊王攘夷派の志士。越後国出身。禁門の変や戊辰戦争を戦った。

大楽源太郎(だいらく げんたろう) 1834-1871

幕末の長州藩士。高杉晋作らと尊王攘夷運動を推進、私塾の西山書屋を開いた。維新後は大村益次郎暗殺事件に連座して幽閉され、脱走したが、明治4(1871)年潜伏先の久留米で暗殺された。

板垣退助(いたがき たいすけ) 1837-1919

板垣退助肖像幕末・明治の政治家。土佐藩出身。名は正形、退助は通称。討幕運動を推進して戊辰戦争に参加し、新政府では参議に就任した。征韓論をめぐって大久保利通らと対立し、西郷隆盛らとともに辞職、民撰議院設立建白書を政府に提出するなど、自由民権論を主張した。明治14(1881)年自由党を創設し、総理に就任。 岐阜での遊説の際、刺客に襲われ「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだとも伝えられる。

39 板垣退助書簡 文久2(1862)年6月6日【憲政資料室収集文書69-1-3】「板垣退助書簡」

江戸藩邸詰の板垣から同郷の土佐藩士片岡健吉に宛てた書簡。「長井ながい雅楽うたの切腹は虚説の趣」と述べられている長井とは長州藩士である。文久元(1861)年3月に長井は藩主毛利敬親たかちかに開国と公武合体を建白し、一時は長州藩の政治方針となった。しかし、まもなく木戸孝允ら藩内の尊攘派の反対にあい失脚、切腹を命じられた。この書簡が書かれた文久2(1862)年6月時点では長井は失脚しただけであり、切腹は翌年2月であった。

「板垣退助書簡」
「板垣退助書簡」の翻刻

三条実美(さんじょう さねとみ) 1837-1891

三条実美肖像幕末・明治の公家、政治家。尊攘派公家の中心人物として長州藩と提携し、公武合体派の公家岩倉具視を弾劾するなど、朝幕の力関係の逆転を策したが、会津・薩摩を中心とする公武合体派に敗れ、他の公家6人とともに長州へ逃れた(七卿落ち)。明治維新後は、太政大臣、内大臣などを歴任した。

40 三条実美書簡  明治6(1873)年7月9日【憲政資料室収集文書265-1-2】「三条実美書簡」の拡大画像

太政大臣の三条から、右大臣の岩倉具視に宛てた書簡。当時岩倉は、特命全権大使として使節団を率いて欧米歴訪中であった。三条は書簡の前半で皇居炎上後の様子に触れている。明治6(1873)年5月5日の皇居炎上により赤坂離宮が仮皇居となっていたが、そのままでは国内外に対し体面を保ち難かった。いずれ皇居を再建するに当たっては、使節団が視察してきた各国の帝王居所の体裁を参考としたいと述べている。後半では大蔵省などの人事問題に触れている。

「三条実美書簡」
「三条実美書簡」の翻刻

岩倉具視(いわくら ともみ) 1825-1883

岩倉具視肖像幕末・明治の公家、政治家。当初公武合体を目指したが、転じて薩長討幕派と結んで王政復古を実現し、明治政府では参与や右大臣に就任。特命全権大使として「岩倉使節団」を率いて欧米各国を歴訪した。帰国後は征韓論を退けるなど内治策に努めた。

41 岩倉具視書簡 明治6(1873)年7月2日【三条家文書(書簡の部)191-49】「岩倉具視書簡」の折りたたみ

使節団を率いて欧米歴訪中の岩倉から、日本で留守を預かる太政大臣三条実美に宛てた書簡。日付からみてジュネーブで書かれたものと思われ、各国歴訪も残すところ1か国である旨記されている。また、皇居炎上の報に驚愕したことも書かれており、留守政府の種々の苦労を気遣っている。岩倉はこの書簡を書いた18日後、7月20日にマルセイユを発し帰途についた。

「岩倉具視書簡」
「岩倉具視書簡」の翻刻

有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう) 1835?1895

有栖川宮熾仁親王肖像有栖川宮第9代親王。幕末に尊王攘夷論を主張。明治政府では総裁職に就任した。戊辰戦争で東征大総督となり、のちに陸軍大将や参謀総長を務めた。

42 有栖川宮熾仁親王書簡  明治9(1876)年7月24日【陸奥宗光関係文書3-10】「有栖川宮熾仁書簡」

元老院議長の職にあった有栖川宮が、元老院議官であった陸奥宗光柳原前光やなぎわらさきみつに宛てた書簡。芝離宮に於いて、三条実美岩倉具視木戸孝允大久保利通伊藤博文などを招いて催されると記されている宴会は、日にちや顔ぶれからみて明治9(1876)年に実施された明治天皇の東北・北海道巡幸の慰労会と思われる。

「有栖川宮熾仁書簡」
「有栖川宮熾仁書簡」の翻刻