第3部 いろいろな直筆

第3章 日記1関東大震災

大正12(1923)年9月1日に関東地方南部を震度7の大地震が襲った。この日の記録を、各々立場と居場所が異なる2人の日記の記述にみる。

永田秀次郎(ながた ひでじろう) 1876-1943

永田秀次郎肖像大正・昭和期の官僚、政治家。三重県知事、貴族院議員などを経て、東京市長を務め、関東大震災からの復興に尽力した。のちに、拓務大臣、鉄道大臣を歴任した。若いころから俳句に親しみ、青嵐の俳号を持つ。演説も巧みでラジオ放送が開始されると度々登場した。

122 永田秀次郎手帳 大正12(1923)年9月1日【永田秀次郎・亮一関係文書1430】「永田秀次郎手帳」の拡大画像

震災当時、東京市長に在任中だった永田秀次郎の手帳。水道管や貯水池など、インフラの被災状況に関する事務的記述のみがみられ、当事者としての緊迫感がある。

「永田秀次郎手帳」「永田秀次郎手帳」の9月1日部分
「永田秀次郎手帳」の翻刻

斎藤実(さいとう まこと) 1858-1936

斎藤実肖像明治から昭和期の海軍軍人、政治家。第30代内閣総理大臣。海軍兵学校卒業後に任官、5つの内閣で海軍大臣を務め、海軍大将、朝鮮総督を経て、昭和7(1932)年の五・一五事件後に総理大臣となった。挙国一致内閣を組織し、満州国承認、国際連盟から脱退したが、帝人事件(昭和9(1934)年、帝国人造絹糸の親会社倒産をきっかけに起こった株式売買疑獄)によって総辞職。内大臣となるが二・二六事件で暗殺された。

123 斎藤実手帳 大正12(1923)年9月1日【斎藤実関係文書(書類の部)208-65】「斎藤実手帳」の拡大画像

震災当時、朝鮮総督として赴任中の斎藤実の手帳。9月1日の記述には、濃尾地震が発生したとの報告を受けたが後に誤報と分かったこと、さらに午後10時半には通信社からの電話により横浜が火災で「全滅」したことなどが伝えられたことが記されている。簡潔な記述であるが、遠隔地ゆえの情報の錯そうや、総督府における情報収集活動の様子が伝わる。

「斎藤実手帳」の9月1日部分

第3章 日記1終戦の翌日

ラジオから玉音放送が流れた翌日、昭和20(1945)年8月16日は、人々が戦後の日々に一歩踏み出した日である。そんな1日を2人の日記にみる。

有馬頼寧(ありま よりやす) 1884-1957

有馬頼寧肖像大正・昭和期の政治家。旧久留米藩主有馬頼万の嫡子で伯爵。東京帝国大学農科大学卒業、東京帝国大学助教授を経て、大正13(1924)年衆議院議員となり、水平社運動、農民組合運動を支援した。第1次近衛内閣では農林大臣を務める。初代の大政翼賛会事務総長を約半年間務めたのちに政界引退、水産物の販売、冷蔵業などの中央統制機関として設立された帝国水産統制株式会社の社長に就任。戦後は中央競馬会理事長となり競馬の発展に尽力、「有馬記念」に名を残した。

124 有馬頼寧日記 昭和20(1945)年8月16日【有馬頼寧関係文書(その1)98-12】「有馬頼寧日記」の拡大画像

終戦時は帝国水産統制株式会社社長。午前9時から水産局長により水産業界の戦時統制機関関係者が集められ、今後の事について相談があったこと、早急に漁獲を増すことなど、戦後の水産業の立て直しに向けた実務的な記述がみられる。

「有馬頼寧日記」の8月16日部分
「有馬頼寧日記」の翻刻

芦田均(あしだ ひとし) 1887-1959

芦田均肖像外交官、政治家。第47代内閣総理大臣。東京帝国大学卒業後、外務省に勤務。昭和7(1932)年に退官して衆議院議員初当選(以後当選11回)。戦後、衆議院帝国憲法改正案委員会委員長を務める。昭和22(1947)年、民主党を結成して総裁に就任、翌年連立内閣の総理大臣兼外務大臣となるが、半年後に「昭和電工疑獄事件(昭和電工社長による贈収賄事件)」で辞職、以後改進党を経て自由民主党に参加した。

125 芦田均日記 昭和20(1945)年8月16日【芦田均関係文書(書類の部)1】「芦田均日記」の拡大画像

終戦時は衆議院議員。当日は短い記述であるが、鈴木貫太郎内閣の総辞職と阿南惟幾あなみこれちか陸軍大臣の自刃について、どちらも多少無責任の感を免れないと述べている。芦田は立憲政友会の外交通として知られたが、軍部の独走と大政翼賛会には批判的態度をとったことから、その活躍の場を奪われていた。なお、後の日記や手帳の記述によれば、16日は鎌倉の家に居たが、17日には東京に行き鳩山一郎と接触を試み、18日には永田町で他の自由主義政治家たちと懇談したとのことであり、終戦を受けて活発化する非翼賛会系の政治家の動きを伝えている。

「芦田均日記」

第3章 日記1日記いろいろ

岩倉具視

→掲載資料41を参照

126 岩倉具視日記 慶応元(1865)年閏5月18日~25日【川上直之助収集文書12】「岩倉具視日記」の冒頭

巻紙に書かれた岩倉具視の日記断簡。和宮降嫁などを推進した岩倉は、幕府と通じているとの嫌疑をかけられ失脚。文久2(1862)年からの約5年間、洛中を追放され京都市北郊岩倉村に蟄居していた。この日記は蟄居中の慶応元(1865)年閏5月の記述である。岩倉の失脚に伴い宮中のちごを辞していた三男周丸(のちの岩倉具定)が、天皇の特旨により再度児として召し出される顛末が記された日記である。風雲急をつげる幕末の情勢が、岩倉に有利に回り始めた兆しの一つともいえる。

「岩倉具視日記」の冒頭

浜口雄幸(はまぐち おさち) 1870-1931

浜口雄幸肖像政治家。第27代内閣総理大臣。大蔵省を経て、立憲同志会に加わり衆議院議員となる。大蔵大臣、内務大臣を歴任後、立憲民政党総裁として昭和4(1929)年総理大臣となる。緊縮財政、金解禁、ロンドン軍縮条約の調印などの業績がある。昭和5(1930)年、東京駅で右翼青年に狙撃され重傷を負い、翌年死亡した。

127 浜口雄幸日記 昭和4(1929)年7月2日【浜口雄幸関係文書2】浜口内閣の成立

博文館から発売された当用日記に書かれている。当用日記とは、さしあたっての用件を書き記しておく日記。1日を1ページとし、そのなかを天気、気温、特記事項などの記入のためにいくつかのスペースに分割しているのが特徴である。昭和4(1929)年7月2日のページには、田中義一内閣が総辞職し、浜口に首相就任の大命降下があったことが記されている。

浜口内閣の成立

豆知識

市販の日記帳はいつからあるの?

日本で初めての既製品の日記帳は、大蔵省印刷局で発行された明治13(1880)年度の「懐中日記」です。当館所蔵の明治21(1888)年度のものは、タイトルを「当用日記」として刊行され、皇統略図から省庁一覧、税法、運賃表など大量の付録がついています。また、序文には、印刷局長が「外人某氏」から日記帳をもらい、通訳に「これは何か」と聞いてその有用性を知った経緯が記されています。
一方、博文館が明治28(1895)年に出版した、明治29(1896)年度の「懐中日記」は、印刷局のものに比べて紙質がよく、鉛筆も附属していました。翌年は「当用日記」を発売。日記と言えば博文館といわれるほど人気を博しました。浜口雄幸の日記も、博文館の「当用日記」を使っています。

『当用日記』の元日ページ
明治21年度『当用日記』の元日ページ(印刷局 明治20.9)【特71-905『当用日記』の標題紙

阿部勝雄(あべ かつお) 1891-1948

阿部勝雄肖像昭和期の海軍軍人。各戦艦の艦長を務めたのち、少将を経て海軍中将となる。第2次大戦中は、日独伊三国同盟締結を推進し、三国同盟軍事専門委員としてドイツに駐在するなど、欧州勤務が主だった。

128 阿部勝雄日記 昭和16(1941)年~20(1945)年【憲政資料室収集文書1371-2】「阿部勝雄日記」の拡大画像

連用日記に書かれている。連用日記とは、毎年同じ日の記録を同じページに書き込めるようにした日記であり、掲載した日記は5年用である。朱色の鉛筆で彩られた4月18日のページは、阿部自身の誕生日である。賑やかな書き込みがエリート海軍軍人の意外な一面をうかがわせる。なお、9月27日のページには、自身も携わった日独伊三国同盟の締結1周年を祝う記述(昭和16(1941)年)と共に、昭和天皇のマッカーサー訪問について「アヽ何と申していいやら」と複雑な心境の記述(昭和20(1945)年)がみられる。

「阿部勝雄日記」の4月18日部分「阿部勝雄日記」の9月27日部分

豆知識

横書きはいつから始まった?

現在当たり前に行われている「左から右へ」の横書きですが、定着したのはそれほど新しいことではありません。「右から左へ」の横書きも特に戦前には多く見られました。
もともと横書きは、江戸時代後期にオランダを経由してアルファベットが知られるようになり、それを浮世絵などに取り入れたのが始まりです。しかし、右から読むのか左から読むのか素人にはわかりづらいため、明治時代になって鉄道の切符や紙幣など西洋の制度を取り入れた横長の紙に書く場合には、縦書きと同じ右始まりである「右から左へ」の横書きが採用されました。現在定着している「左から右へ」の横書きは、数学など学術的な必要性から、限られたエリートが使うものでした。 その後、「右から左へ」と「左から右へ」の併用や混在の時代を経て、「右から左へ」の横書きが廃れたのは、戦後数年経ってからだとされています。 本電子展示会で横書きのものは、「科学の眼 横文字との格闘」に登場する3点(吉雄如淵宇田川玄随西村茂樹)と、日記コーナーに登場する英文併記の2点(斎藤実阿部勝雄)のみです。