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あの人の直筆

あの人の直筆第3部 いろいろな直筆第3部 第4章 家族への手紙

第3部いろいろな直筆

第4章 家族への手紙

陸奥宗光(むつ むねみつ) 1844-1897

明治期の外交官、政治家。海援隊に加わるなど、坂本龍馬と行動を共にし、維新後は、兵庫県知事、大蔵省租税頭、元老院議官などを歴任。明治11(1878)年、土佐立志社事件に関与し免官、5年間入獄。出獄後、欧米を歴訪し帰国後外務省入省。第1回総選挙に当選後、農商務大臣を経たのち、第2次伊藤内閣の外務大臣に就任し、不平等条約の改正や下関条約の締結に貢献した。後妻の亮子は、美貌や話術で「鹿鳴館の華」、駐米大使となった陸奥に同行した際には「ワシントン社交界の華」と呼ばれた。

197 陸奥宗光書簡 明治17(1884)年6月16日【陸奥宗光関係文書55-2-6

英国滞在中の陸奥から、夫人の亮子に宛てられた書簡である。陸奥は明治17(1884)年4月から19(1886)年2月にかけ、欧米を歴訪した。この書簡はその折に送ったものであり、家族の事を気にかける様子が伝わる。また、亮子の写真を送って欲しいことや、用事はなくとも1週間ごとに互いに便りをしたいといったことが書かれており、陸奥の愛妻家ぶりがうかがえる。

陸奥宗光書簡(署名部分)

陸奥宗光書簡(冒頭)

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大山巌(おおやま いわお) 1842-1916

明治期の陸軍軍人。西郷隆盛、西郷従道の従兄弟。戊辰戦争に従軍し、維新後欧州に留学、帰国後は陸軍で活躍し、日清戦争では元老として遇され、第2軍司令官、日露戦争では元帥、満州軍総司令官を務めた。陸軍大臣、参謀総長、内大臣を歴任。後妻は日本初の女子留学生の一人である大山(山川)捨松。

198 大山巌書簡 明治10(1877)年5月28日【大山巌関係文書(寄託)33-2

西南戦争のさなか、大山から東京の沢子夫人(吉井友実の娘)に宛てた書簡である。夏服を一式鹿児島に送って欲しいことや、甥の武次郎を呼び寄せるにあたり、アイスクリン(アイスクリーム)を作る道具を持たせるようにと書き送っている。大山は西南戦争に際して政府軍の別働第1旅団司令長官として出征し、従兄の西郷隆盛を討つ悲劇の人となった。しかし、この書簡ではそういった悲壮感は感じさせず、長期戦に備える様子をみせている。

大山巌書簡

大山巌書簡

封筒(表)

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白洲正子(しらす まさこ) 1910-1998

随筆家。実業家、貴族院議員樺山愛輔の次女。祖父は海軍大将樺山資紀すけのり。夫は実業家で、占領期に吉田茂の側近として活躍したことで知られる白洲次郎。能、古美術、古典文学など幅広い評論活動をもとにし、紀行文も含めた著書が多数ある。能舞台に演者として初めて立った女性としても知られている。

(肖像写真提供:武相荘)

199 樺山正子書簡 大正9(1920)年10月1日【樺山資紀関係文書(その2)57

当時11歳の白州正子(旧姓樺山)から84歳の祖父、樺山資紀に宛てられた書簡。正子は『白州正子自伝』(平成6(1994)年)のなかで、幼少期に自分のことを「ボク」と呼んでいたことに触れている。その言葉どおり、この書簡でも自画像の横に「ぼくよ」と書き添えられている。なお、祖父の樺山は鹿児島出身の軍人で政治家。西南戦争、日清戦争での活躍により伯爵に叙せられ、海軍大臣、台湾総督、内務大臣などを歴任した。

樺山正子書簡(挿絵)

樺山正子書簡

樺山正子書簡(封筒)

昔の手紙の体裁

江戸時代後期から明治大正にかけては、巻紙(⇒豆知識「紙の大きさと種類」参照)に手紙を書いていました。その体裁や作法について簡単に説明します。

手紙は細長く紙を繋いだ形状。本文を内側にして手紙を巻きます。巻き終わった表面に宛先を書くこともあります。

手紙の本文の冒頭には、拝啓、前略などの頭語がきます。

続いて本文が候文などで書かれます。

最後に草々頓首などの結語がきます。

行を改めて日付と差出人名が書かれ、また行を改めて宛先が書かれます。宛先の敬称には様や大兄、閣下などがあります。追伸があれば続けて書かれますが、余白が足りなければ手紙の冒頭の余白に書きます。これを返し書きといいます。

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