目次
第1部 近世
第4章 芸能とその周辺
市川団十郎(5代目)(いちかわ だんじゅうろう 5だいめ) 1741-1806
歌舞伎俳優。4代目団十郎の子。安永から寛政期にかけての江戸歌舞伎を代表する名優で、荒事の役だけでなく、女方もよくした。寛政8(1796)年に引退し、向島の反古庵に隠居。俳名を白猿、狂歌号を花道のつらねと名乗った。随筆・狂歌・滑稽本など著作も多く手掛け、一流の文人たちと親交を深めた。
44 徒然吾妻詞 〔江戸後期〕 【245-155】
『徒然草』のパロディの形をとった随筆集。掲載資料中に5代目団十郎の自筆であることを明示する記述はないが、国文学者日野龍夫氏は、筆跡や装訂、内容等から手控えの自筆本と推定している(『五世市川団十郎集』解説)。5代目団十郎は『徒然草』を非常に愛好した。『徒然草』の第22段に「昔は「車もたげよ」「火かかげよ」と言ったのを、当世の人は「もてあげよ」「かきあげよ」と言う。」などとあるのを受けて、掲載資料には「それさへあるに今時は「もちゃあげろ」「かきたてろ」もすさまじいじゃあねへじゃあねへじゃあねへかゑ」と続ける。
市川団十郎(7代目)(いちかわ だんじゅうろう 7だいめ) 1791-1859
歌舞伎俳優。5代目団十郎の孫。俳名は三升、白猿など。団十郎の名跡を全国に広め、ゆるぎないものにした。一方で、豪奢な私生活が天保の改革による奢侈の禁止に触れ、一時江戸を追放になるなど、時代に翻弄された。文筆に親しみ、合巻・狂歌など著作を多く残しており、それらの作品からは洒脱な人柄がうかがえる。
45 歌舞伎十八番 嘉永5(1852)年 【寄別2-7-2-1】
「歌舞伎十八番」の錦絵18枚を画帖に仕立てたもので、7代目団十郎自筆の識語がある。「歌舞伎十八番」は、天保の頃に、7代目団十郎が代々の市川団十郎によって上演されてきた家の芸を集めて定めたもの。画は3代目歌川豊国による。
(識語)(歌舞伎十八番)
市川団十郎(8代目)(いちかわ だんじゅうろう 8だいめ) (1823-1854)
歌舞伎俳優。7代目市川団十郎の長男。10歳で団十郎を襲名した。天才的な技芸と美貌により、熱狂的な人気を得たが、32歳の若さで自ら命を絶った。その死を惜しんで、300以上の死絵(似顔絵に法名や没年月日などを記した浮世絵の一種)が出版されたという。書画にも秀で、三升、夜雨庵などの号で優品を遺している。
46 夜雨菴戯画【寄別6-4-3-3】
夜雨菴(庵)は8代目の画号で、戯画は戯れに描いた絵のこと。書名の通り、即興で描かれたかのような軽い筆致の絵が多く、ところどころにおかしみがあって味わい深い。掲載箇所中、右丁は歌舞伎十八番のひとつ、「暫」の主人公であろう。8代目は襲名直後に「暫」を演じており、父の5代目海老蔵(天保3(1832)年、7代目団十郎から改名)が敵役として共演した。左丁は達磨の絵に、「ころかしてな(カ)したみやけや年の市」。8代目の句であろうか。達磨の仏頂面に滑稽味がある。
式亭三馬(しきてい さんば) 1776-1822
47 市村座狂言絵本 〔享保年間(1716-1736)〕 【京乙-361】
享保20(1735)年1月、江戸・市村座で上演された「振分髪初買曽我(ふりわけがみはつかいそが)」の芝居絵本(芝居の内容を絵にし、簡単な説明を加えた小冊子)。表と裏の見返しに、文化12(1815)年秋の三馬の書き入れがある。内容は「振分髪初買曽我」上演時の2代目市川団十郎の評判、2代目が病気のため団十郎の名と俳名三升を養子の升五郎に譲って海老蔵を襲名した話など。三升を譲った後の俳名栢莚は夢によって付けたものという逸話を、5代目団十郎から聞いたと記し、「其白猿〔5代目団十郎〕も今は古人となりぬ」と結ぶ。

