目次
第1部 近世
第3章 科学の眼 3. シーボルトをめぐる人々
シーボルト(Philipp Franz von Siebold) 1796-1866
ドイツ人医師。オランダ商館付医官として文政6(1823)年来日。長崎の鳴滝塾で多くの門人に西洋医学・博物学を伝授し、また、江戸参府の際(文政9(1826)年2月15日から7月7日)には長崎-江戸間の各地で蘭学者らと交わって情報交換をした。その成果は『日本』(Nippon)、『日本植物誌』(Flora Japonica)、『日本動物誌』(Fauna Japonica)などにまとめられている。文政11(1828)年、禁制品の地図などを海外に持ち出そうとして国外追放になった(シーボルト事件)が、安政6(1859)年には再来日した。
38 Aardrijkskunde voor zeevaart en koophandel, James Hingston Tuckey, Rotterdam, J. Immerzeel, 1819【蘭-269】
英国海軍中佐・探検家James Hingston Tuckeyの著作『海洋地理学と統計』(Maritime geography and statistics)のオランダ語版(第1冊)。「チュケイ地理書」と称され、シーボルトから天文方の高橋景保に贈られた。見返しにはシーボルト自筆で「医学博士フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトより江戸王室天文台の敬愛するグロビウス君へ記念として贈る 1826年5月」という内容のオランダ語献呈辞が書かれている。「グロビウス(Globius)」は景保のオランダ名。景保はシーボルトと親しく交際し世界事情の入手に努めたが、シーボルト事件で獄死。本書も幕府に没収された。蕃書調所旧蔵。
水谷豊文(みずたに とよぶみ) 1779-1833
39 エトヒルカ図(錦窠禽譜第4冊のうち)〔文化年間(1804-1818)頃〕【寄別11-10】
『錦窠禽譜』は伊藤圭介が鳥類関係の資料・稿本を集積し、弟子の博物学者田中芳男、孫の伊藤篤太郎が整理したもの。圭介自身の原稿や図のほか、尾張やその周辺地域の人々が執筆したものも多く収録されており、掲載箇所は水谷豊文の自筆図。「エトヒルカ」とあるが、ツノメドリで、右上部のラテン語の属名「Alca」の文字は、篤太郎の識語(写本・刊本などで、本文のあと、または前に、書写・入手の由来や年月などを記したもの)に「Siebold(シーボルト)の自筆鑑定か」とある。豊文自身の『水谷禽譜』に「ヱトヒルカ」の項目があり、本図と同様の図が掲載され、文化6(1809)年4月に熱田沖(現愛知県名古屋市)で捕えられた旨を紹介している。
『錦窠禽譜』第4冊のエトヒルカ図
伊藤圭介(いとう けいすけ) 1803-1901
尾張の博物家、医師。号は錦窠。水谷豊文とシーボルトに師事。リンネの近代的な植物分類法を日本で初めて紹介した『泰西本草名疏』を刊行、尾張博物家の会である嘗百社の中軸として活躍し、尾張藩洋学所の総裁としても研究・教育に当たった。明治維新後は東京へ転居し、東京大学の教授として小石川植物園で研究を継続、日本最初の理学博士ともなった。99歳の長命を保ち、その間収集した広範な博物誌資料は孫の植物学者伊藤篤太郎に受け継がれ、主要部分が伊藤文庫(約2,000冊)として当館に現存する(関連電子展示会「描かれた動物・植物 : 江戸時代の博物誌」)。
40 錦窠蟹譜(第2冊)〔江戸末期〕【寄別11-7】
表紙の題名は「椎氏蟹譜鈔」。「椎氏」とはシーボルトのこと。圭介の蟹類についてのさまざまな資料・稿本を孫の伊藤篤太郎が編集した『錦窠蟹譜』(稿本。全5冊)の1冊。シーボルト編『日本動物誌』(Fauna japonica 40関連資料)甲殻類部の、シーボルトによる解説中の学名・和名対照リストと図を抄録する。篤太郎の識語(写本・刊本などで、本文のあと、または前に、書写・入手の由来や年月などを記したもの)によると、圭介は幕末に同書を調査・抄録し、図版は鉛筆で輪郭をなぞり写したとある。
圭介による「図も多し少く鈔する(=写す)のみ」の書入れがある。圭介は植物学者としての業績が大きいが、自然物全般に幅広く関心を持っていた。
『錦窠蟹譜』第2冊の蟹の図
40関連資料:Fauna japonica. Crustacea / auctore Ph. Fr. de Siebold ; elaborante W. De Haan, Lugduni-Batavorum, Ex Officin. Lithogr. Auctoris et Typis J. G. La Lau. 1850.【Sd-101】
Fauna japonica
41 泰西本草名疏 〔文政11-12(1828-1829)年〕 【WA22-4】
自筆草稿。文政11(1828)年、遊学先の長崎でシーボルトから贈られたツュンベリー(Thunberg, Carl Peter, 1743-1828)の『日本植物誌』(Flora Japonica, 当館で所蔵【別-25】)をもとに、日本産植物の学名(ラテン語)をアルファベット順に並べ、対応する和名と漢名を記したもの。筆記したセピア色の欧文はシーボルトの書き入れ。文中、○の中に「シ」と書いた印はシーボルトの見解を示す記号だが、シーボルト事件後に出版された刊本【特7-410】(文政12年刊)では、「シ」の字を削り、○印に変えている。
泰西本草名疏(○シの印が見える)
豆知識
鉛筆はいつからあるの?
16世紀半ば、イギリスで偶然発見された黒鉛を木片にはさむなどして筆記用具としたのが鉛筆の始まりです。日本にはオランダを通じてもたらされ、伊達政宗の墓所から発見されたものや、徳川家康に献上されたものが最初期のものです。鎖国時代の輸入品であるため貴重でしたが、掲載資料40(伊藤圭介)では鉛筆が使われています。 初めての国産品は明治初年の内国勧業博覧会に出品されました。その後、真崎鉛筆製造所(のちの三菱鉛筆)が明治20(1887)年に工場を設け、工業的な製造に成功しました。真崎の鉛筆が明治34(1901)年に逓信省に採用されてから、徐々に一般に普及します。
小学校では当初は図画の時間にのみ用いられていましたが、1910年から20年代にかけて、石盤や毛筆に代わる学習用具として定着しました。
高野長英(たかの ちょうえい) 1804-1850
42 軍法不審 荻生徂徠著 高野長英写〔江戸後期〕【勝海舟関係文書53】
脱獄後江戸に潜伏していた長英(47歳)が、嘉永3(1850)年9月頃、蘭学塾を開いていた28歳の勝海舟と夜中に談論し、別れの際に海舟に手渡した自筆写本。『軍法不審』は荻生徂徠の兵学書『鈐録外書』の別名。版本はなく、写本や木活字本で流布していた。巻末の長英の跋文には、「敬服ノ余リ」筆を執ったと読後の感激をしのぶことができる。この1か月後、長英は死に至る。表紙には勝海舟の筆で「高野長英真筆/同人脱牢後逢於横谷/氏之宅此時送予処」と記す。勝海舟旧蔵。
軍法不審跋文
軍法不審
豆知識
昔からあった「修正液」
現在の修正液(いわゆる「ホワイト」)は、昭和26(1951)年、アメリカのタイピストがタイプライター用に発明しました。日本では、昭和45(1970)年に国産品が開発され、タイプライター以外の筆記用具にも使いやすいものになり、現在まで続いています。
修正液発明以前の日本でも、「ホワイト」のようなものが存在していました。手紙にはあまり見られませんが、文字を白い液体で修正した写本が散見され、これには、胡粉(貝殻を粉末にした顔料)が使われています(宇田川玄随、高野長英など)。
伊能忠敬(いのう ただたか) 1745-1818
地理学者、測量家。上総国生まれ。隠居後の通称を勘解由という。18歳で下総国佐原の伊能家へ婿養子に入る。酒造などの家業を再興し、名主として郷土のために尽くした。隠居後の50代から、江戸で高橋至時について天文学を本格的に学ぶ。蝦夷、のちに全国の実地測量を行い、日本最初の実測による全国図の編纂に従事した。『大日本沿海輿地全図』は「伊能図」として名高い。
43 伊能忠敬自筆書簡 〔文化4(1807)年〕5月6日 【WA25-82】
大川治兵衛宛。大川は伊能家の帳元締(金銭の出入り・勘定などの取り締まりをする役)として忠敬の測量作業を支えた人物。畿内や中国地方を巡った第5次測量が終わり、江戸に帰っていた文化4(1807)年の書状と考えられる。孫の三治郎(のちに忠敬の継嗣となる忠誨)の初節句や、地図の仕立て作業などについて記す。自宅は作業する弟子たちで混雑し、昼食やおやつを用意する者もおらず、忠敬一人に負担がかかって「扨々(さてさて)世話にこまり申候」と述べている。
関連電子展示会「ディジタル貴重書展」(〔大日本沿海輿地全図〕(伊能図))


