目次
第1部 近世
第3章 科学の眼 1. 本草学者の業績と蘭学の誕生
本草学とは、中国の薬物学で、薬用とする植物・動物・鉱物の、形態・産地・効能などを研究する学問。日本では江戸時代に全盛をきわめ、中国本草書の翻訳・解釈にとどまらず、日本に自生する植物・動物などの研究に発展した。また、鎖国下の貿易相手国オランダがもたらした西洋の学問は「蘭学」と称され、主に医学・天文学・兵学などの分野に大きな影響を与えた。
コラム 重要文化財ー小野蘭山関係資料
当館では重要文化財を10件所蔵しており、「小野蘭山関係資料」はこのうちの1件である。
「小野蘭山関係資料」は、平成13(2001)年に蘭山の直系の子孫にあたる小野強氏から当館に寄贈された資料のうち、特に重要な11点の資料から成る。蘭山の自筆資料のほか、蘭山と同時代に作成された資料を含み、彼の活動を知る手掛かりとなるものである。蘭山の生涯と学問を研究する上での基本資料として学術的価値が評価され、重要文化財に指定された。
他機関が所蔵している蘭山の関係資料の中には、より規模の大きいコレクションもあるが、当館所蔵の資料群は近年まで小野家に伝存したものであり、内容的にも、蘭山の本草学の根幹を知り得る自筆の講義稿『本草綱目草稿』(掲載資料26)や、医学館勤務や採薬活動の実態を伝える自筆の『小野蘭山公勤日記』など、蘭山の人生における重要な事柄に関わる資料を多く含んでいる。
小野蘭山(おの らんざん) 1729-1810
26 本草綱目草稿 〔江戸中期〕【WA1-10-6】重要文化財
蘭山が『本草綱目』の講義に用いた覚え書き。余白部分はおびただしい書き込みで埋め尽くされており、袋綴じの折り目を切って裏面まで使用し、さらにメモの紙片346枚も付随する。安永末(1780)年頃までに作成され、没するまでの約30年間、補充・訂正を重ねて使用された。講義を聞いた弟子による記録はよくあるが、講述者自身の講義用覚え書きは珍しい。
27『小野蘭山公勤日記』 寛政11(1799)-文化7(1810)年 【WA1-10-4】 重要文化財
掲載資料は蘭山が幕府に招かれ、医学館で本草学を講じた時期の日記である。寛政11年3月に江戸に向けて京都を出立した日から、文化7年1月に没する直前までの記事が含まれる。幕命で採薬の旅に出た際の行程や、採集した植物が記されているなど、蘭山の活動を知ることができる。
木村蒹葭堂(きむら けんかどう) 1736-1802
28 蒹葭堂雜誌 〔江戸中期〕【WA21-16】
物産、動植物など48項目について短文と図を記したもの。掲載箇所は北方の鳥「ヱトヒルカ」(エトピリカ)。「丸くむきたるを前々見ることありて形をうつしをきぬ」とある。
天明5(1785)年田沼意次が蝦夷地へ調査隊を派遣、寛政4(1792)年ロシアのラクスマンが来航するなど、ロシア、北方への関心が高まっていたが、大坂は蝦夷産品の集散地であり、蒹葭堂も蝦夷の地図や産物を集め、蝦夷情報に精通していた。
『蒹葭堂雜誌』のエトヒルカ(エトピリカ)の絵
28関連資料:木村蒹葭堂 誓盟状 天明4(1784)年【WA1-10-7】重要文化財
天明4(1784)年、蒹葭堂が小野蘭山の内門(=上級)の弟子になった際の自筆誓約書。「本草学をやめる場合は、入門以来の書写・記録はすべて返納すること」(第3項)など、厳しい内容である。本居宣長の『宇計比言』と類似の文書だが、書体のみならず書かれている内容も異なる。
田村藍水(たむら らんすい) 1718-1776
名は登。通称元雄。姓を「坂上」とも称する。町医であったが、朝鮮人参の栽培などで幕府に認められ、人参製法所の責任者となって人参国産化にあたった。幕命により諸州を訪れ薬用植物の採集や物産の調査も行っている。『人参耕作記』『琉球産物志』(関連電子展示会「描かれた動物・植物-江戸時代の博物誌-」)などの著作がある。老中田沼意次、薩摩藩主島津重豪、木村蒹葭堂などとも親交があった。長男は善之(号西湖)、次男は栗本丹洲で、ともに幕医・博物家。門下に平賀源内、曽槃(薩摩藩の本草学者)などがいる。
29 日本諸州薬譜 〔宝暦年間(1751-1764)頃〕【寄別11-5】
藍水の著作『日本諸州薬譜』の草稿の一部。この草稿を整理・浄書する際に、藍水が作業済の目印とした太い斜線や欄外の「済」の文字が生々しい。内容は岩石、金属、温泉などで、動植物は含まない。藍水の子栗本丹洲の孫である大淵常範から、伊藤圭介に与えられた。現在は綴じの順番が狂っており、バラバラになった原稿が伝えられて来たものと考えられている。
『日本諸州薬譜』の石について書かれた部分
岩崎灌園(いわさき かんえん) 1786-1842
名は常正。小野蘭山に師事。幕府の徒士という低い身分だったが、若年寄堀田正敦に見出された。その結果、屋代弘賢が幕命で編纂した『古今要覧稿』(多くの書物から類似の事項を集めて分類し、まとめた百科事典形式の書物)の草木部の執筆を担当したり、薬園の設置を許されたりと、活躍の場を与えられた。代表作『本草図譜』は日本最初の本格的彩色植物図譜。
30 本草図譜記〔江戸後期〕【特1-2972】
『本草図譜』配本時の覚書。幕府献上本を含めて各所への配布の巻数・日付を記録している。掲載箇所は徳川御三卿の一つ田安家への配布分の記事。田安家へは、文政13(1830)年の山草類(巻5~8。木版・手彩色本)から配布され、天保11(1840)年6月配布の蔓草類8冊(巻25~32。筆写彩色本)には代金として3両下された旨が記されている。
『本草図譜記』のうち御三卿の一つ田安家への配布分の記事
30関連資料:本草図譜 巻16(巻5~96のうち)江戸後期【に-25】
田安家旧蔵。『本草図譜』は予約制で配布された。最初の4冊(巻5~8。巻1~4は存在しない)は木版で制作された(ただし、本電子展示会に掲載している本の巻5~8は後補の写本)。資金調達の困難からか、5年の空白後、巻9~96は筆写・手彩色本として制作された。本書のような彩色の図譜の場合、少部数であれば、版木を作って印刷するよりも手で筆写する方が簡便だったのだろう。そのため、出来には差が生じるが、本資料は田安家への配布本で、丁寧に描かれている。掲載箇所は画家竹本石亭画。
コラム 国立国会図書館の本草学コレクション
当館には日本有数の本草学コレクションがある。伊藤文庫は、伊藤圭介が収集し、孫の篤太郎が整理・保存していた本草学関係書約2,000冊からなる。その中には、多数の博物家の自筆資料、散逸した著作の実物や写し、一枚刷り、書簡、広告等をも含む『植物図説雑纂』(122冊(分254冊))などの貴重な資料集がある。また、白井光太郎の旧蔵書で、本草学関係の和漢洋の古書など約6,000冊からなる白井文庫は、主著『日本博物学年表』に使用された資料のほとんどが含まれる。平成13(2001)年には小野蘭山関係資料89点をご子孫から寄贈いただいた。(関連電子展示会「描かれた動物・植物-江戸時代の博物誌-」)本電子展示会の『本草綱目草稿』のほか、谷文晁筆の『蘭山翁画像』なども含まれており、この2点を含む11点は平成27(2015)年に国の重要文化財に指定された。
これらの収集以後も、本草学関係の資料は少しずつ増えている。ここで紹介する杉田玄白の書簡は、宛先である木下家からの寄贈、また、南方熊楠の白井光太郎宛葉書は、昆虫学者長谷川仁氏ご子孫からの寄贈である。また、田村藍水・息子の西湖の執務記録である『万年帳』などもご子孫から寄贈いただいた。所蔵資料が新たな資料を呼び、コレクションがさらに充実していく、善き例と言えるだろう。なお本草学コレクションは電子展示会「描かれた動物・植物-江戸時代の博物誌-」で紹介している。
杉田玄白(すぎた げんぱく) 1733-1817
小浜藩医。前野良沢、中川淳庵、桂川甫周らと『解体新書』を訳述し、安永3(1774)年刊行、日本医学の発展に大きな影響を与えた。晩年の回想録『蘭学事始』には、翻訳の苦労が描かれている。家塾天真楼で大槻玄沢などの弟子を育て、蘭学の発達に貢献した。
31 杉田玄白書簡(『木下文書』のうち)〔文化3(1806)年〕【YR1-N23】
木下宗白宛。宗白も小浜藩医で、玄白に師事した。内容は、宗白からの手紙に対する返事と類焼見舞いに対する礼状で、年記はないが、文化3(1806)年玄白74歳のものと推定される。当書簡を収める『木下文書』は、宗白の子孫で医師の木下熙が杉田家からの書簡などを明治42(1909)年に整理したもので、親交のあった日本画家の富岡鉄斎が箱書と自序を代書している。
杉田玄白書簡
箱書
桂川甫周(かつらがわ ほしゅう) 1751-1809
名は国瑞。号は月池。幕府奥医師で、『解体新書』の翻訳にも携わった。ツュンベリーら江戸参府オランダ商館長一行と会談し、新知識の吸収に努めた。将軍家斉の内旨を受け、大黒屋光太夫のロシアでの体験見聞を聴取、分類記録した『北槎聞略』は名著として名高い。
32 蝦夷草木図 小林豊章画 桂川甫周写 寛政5(1793)年【寄別11-2】
幕吏小林豊章が寛政4(1792)年に西蝦夷地(北海道の日本海沿岸)と樺太南部を調査し、そこで目にした植物を写生してまとめた図譜。掲載資料は、甫周が寛政5(1793)年に幕府の献上本を模写したもの。掲載箇所に描かれているのはポロヤキナ(エゾオグルマ)。伊藤圭介旧蔵で、ピンク色の付箋は圭介筆。圭介の孫・理学博士伊藤篤太郎のメモもあり、本図に「Cineraria」と学名を記したのはシーボルトという。
桂川甫周写『蝦夷草木図』のポロヤキナの図
栗本丹洲(くりもと たんしゅう) 1756?-1834
33 蝦夷草木図 小林豊章画 栗本丹洲写 寛政9(1797)年【亥-215】
若年寄堀田正敦は、寛政9(1797)年丹洲に命じて所蔵していた『蝦夷草木図』に漢名・和名と注釈を加えさせた。掲載資料は、その際、丹洲が自身のために転写したもの。朱字は丹洲の書入れで、藍字は幕医坂丹邱のもの。江戸時代は木版などの印刷による書物の出版も盛んだったが、書写による写本での流通も引き続き行われた。掲載資料32、33とも原書に近い転写本で描写も丁寧なものだが、元とした本の違い、所蔵者の書入れなどにより、伝える内容はすでに同一ではなくなっている。
栗本丹洲写『蝦夷草木図』のポロヤキナの図
大槻玄沢(おおつき げんたく) 1757-1827
34 大槻玄沢自筆書簡 〔寛政9(1797)年〕2月15日 【WA25-83】
大垣藩医の江馬春齢(元恭)宛。江馬は杉田玄白、前野良沢に蘭学を学んでいる。玄沢は寛政8(1796)年末に火事で罹災しており、書簡の前半で江馬からの見舞いに礼を述べている。後半では、玄白が相変わらず忙しい、良沢が矍鑠としている、など蘭学者たちの動向を記す。江馬が小野蘭山に依頼した、ドドネウス(「ドヽニユース」Dodonaeus又はDodoens, Rembert 1517-1585)『草木誌』中の植物名同定についても言及している。


