1873年ウィーン万博

明治政府初参加

【コラム】ウィーン万博への道程

明治政府に対するオーストリアからのウィーン万博への公式参加要請は、1871(明治4)年2月、オーストリア代理公使よりもたらされた。万国博覧会の内容について十分な知識を持ち合わせなかった日本政府は、オーストリア弁理公使をはじめとした関係者と話合いを重ね、博覧会の主旨、参加方法や展示品の収集、分類などを明らかにし、慎重に検討した結果、国をあげて博覧会に参加することに決定した。この日本政府とオーストリア側関係者との対話の記録が「外務省記録」として残されており、当時の政府首脳部の考え方を窺い知ることができる。

ウィーン万博への公式参加を決めた日本政府は、同年12月に参議大隈重信、外務大輔寺島宗則、大蔵大輔井上馨らを「墺国博覧会事務取扱」とし、出展の準備を進めた。翌年(1872/明治5年)1月には文部省の町田久成、田中芳男他が博覧会御用掛となり、2月8日には太政官正院内に墺国博覧会事務局が設置され、以降はこの事務局が中心となって準備を着々と進めていった。

1872(明治5)年正月、ウィーン万博参加を知らせる太政官布告(第7号正月14日)が全国に布告された。この布告には、ウィーン万博参加の目的等が述べられ、各府県に対し、各々の地の物産調書を作成した上で出品する物産の準備をし、6月30日までに収集するよう記されている。この調査は、ウィーン万博出展準備と共に、日本各地の物産調査を兼ねていたことが判る。なお、特産物等は2点ずつ準備するように指令されており、内訳は1点がウィーン万博出展用、もう1点は博物館の常備陳列用として保管された。また、同年には壬申検査と呼ばれる社寺などの宝物などに対する文化財調査が行われ、博覧会事務局からも担当者が同行し、ウィーン万博へ出展する宝物の選定を行った。

3月10日から4月末日までは、湯島聖堂大成殿を会場として文部省博物局による博覧会(日本における最初の博覧会)が開かれた。この博覧会は前年に開催された大学南校(文部省の前身)物産会の資料と、早めに集まったウィーン万博用の出展品によるものであったが、反響は大きく、当初20日間を予定していた会期を1ヵ月ほど延長するほどのものであった。入場者総数は約15万人、1日平均にすると約3000人の観覧者がいた計算になる。この時点ですでに宮内省に献納されていた名古屋城の金鯱(雌側)も出展され、大変な人気を集めた。そして、この博覧会での評判を元に金鯱も日本の出展物としてウィーン万博に送られることとなった。なお、同年8月1日には帝国図書館の源流となる書籍館(しょじゃくかん)が湯島の聖堂に開館し、また、9月13日には新橋と横浜の間で鉄道の営業が開始された。

さて、各府県からの出品物は11月には全国的な収集を終え、博物館事務局に集められた。また、ウィーンに送る際に各地から集めただけでは不足すると思われた物品(主に会場での販売用)に関しては、東京府下の古道具商や製造人などから買い集められ、各地の特産品と共に送られることとなった。そして、11月19日に明治天皇以下の皇族が博物館事務局に行幸啓され展示品を御覧になり、20日から28日までは一般に公開された。

こうして集められた品々は、翌年1月、フランス船ハーズ号によってウィーンに向けて送られた。ちなみに、ウィーン万国博覧会終了後では、明治7年3月20日未明、乗客乗員90名、出品物192箱を積んで日本へ向かったフランス郵船ニール号が静岡県伊豆半島沖で暴風雨のため暗礁に乗り上げ座礁した。乗組員のうち4名は救命ボートで難を逃れ、1名が救助された。残る人達の生存は絶望的であった。明治初期における最悪の海難事故とされている。

出品物192箱のうち、陶磁器・漆器等68箱分が翌年博覧会事務局によって引き揚げられた。そのうちの一部は博覧会事務局(現在の東京国立博物館)に収蔵された。しかし、船体をはじめとした、残された出品物は100年たった現在も海底に沈んだままである。大型出品物として有名な名古屋城の金鯱はあまりに大きかったため、香港で船の積み替えを行った際にニール号に載せることができず、結果的に難を逃れることとなった。

(※このコラムの日付の表記は、1872(明治5)年までは旧暦、1873(明治6)年から新暦を基準にしている。)

参考文献:

博覧会事務局編 『澳国博覧会筆記』 1873 (『明治文化全集』経済編(日本評論社1929)収録 <特18-698>)
博覧会事務局編 『博覧会見聞録』 1874 (『明治文化全集』経済編(日本評論社1929)収録 <特39-322>)
博覧会事務局編 『澳国博覧会報告書』 1875 <特39-323>