コラム 1850年以前の博覧会

博覧会の起源については諸説があるが、近代的な博覧会の原型は17世紀から18世紀にかけて形成されたといってよかろう。1667年、フランスのルーブル宮で美術品の展覧会が開催され、作家が競い合い、愛好者達が批評しあった。1760年にはイギリス王立美術協会主催の全国美術展が始まり、カタログ販売、入場券制度が生まれた。

1789年の革命後のフランスでは、1797年、ダベーズ候(M. d'Aveze)がかつての王立工場再建の監督官に任命され、タペストリー、陶器、カーペットなどの製品在庫をサン・クルー城で売り立てた。翌年、ダベーズ候は2回目の売り立て会を計画したが、内相ド・ヌフシャトー(F. de Neufchateau)が、産業復興に有効であるとして国家事業に格上げした。彼はダベーズの売り立て方針を排除して展示品を非売品とした。また、優れた製品には審査により賞を授与するといった近代博覧会の体系が成立した。パリのシャン・ド・マルスに新設された会場と周囲のアーケードには、全仏から集まった製品が陳列されて市民の人気を集めた。時計関連製品を考案したブレゲ(A. L. Breguet)や鉛筆の芯の改良者コンテ(N. J. Conte)が賞を受けている。

この成功に勢いづいたフランスは、1849年まで計11回の博覧会を実施する。出品者、会期は回を追うごとに拡大し、産業奨励会が組織されるなど、国内産業の進歩に大きな刺激を与えていく。そして、フランスの成功に学んだオーストリア、ベルギー、スペイン、ドイツ、アメリカなど各国でこぞって国内博が開かれるようになる。

一方、産業革命の進んだイギリスでは、博覧会を工業化に遅れた国の事業とする見方が強く、見本市的なものは開かれていたが、商品取引が中心であった。しかし、この認識はヴィクトリア女王の夫であるアルバート公の登場によって打ち破られる。彼はドイツのザクセン王族の出身のため大陸の事情に通じていた。1845年に総裁を務める王立美術協会で提案された工業製品の国内博開催案を推進し、翌年から工芸の展覧会を毎年開催して優れた製品を展示し、国民の関心を高めた。この成功は、彼を国際的な博覧会開催へと駆り立てていく。自ら博覧会基金に多額の寄付を投じ、反対派議員の説得にあたり、外国を訪問して参加国を募った。こうして、当初国内博として開催予定であったロンドン博覧会は、1851年に世界初の万博として結実することとなった。

参考文献:

平野繁臣 『国際博覧会歴史事典』 内山工房 1999 <D7-G26>
吉田光邦[述] ; 日本放送協会編 『万国博覧会 : その歴史と役割』 日本放送出版協会 1985 <D7-E82>
吉田光邦編 『図説万国博覧会史 : 1851-1942』 思文閣出版 1985 <D7-66>