(2)国産化に向けて(第2~4回内国勧業博覧会)

第2回内国勧業博覧会 1881(明治14)年 東京

西南戦争を契機としたインフレーションにより、勧業政策の縮小を余儀なくされる状況で開催されたにもかかわらず、規模は第1回を凌ぐものだった。各府県群区に設置された世話掛による出展勧誘が一因だったようである。出展品は種別に展示され、製品を比較することに重点が置かれた。ここでも政府の出展品が最も多く、勧農局(博覧会終了時は農商務省農務局)と工部省のものが中心であった。

出展数は、紡績関係が約3分の1を占めたが、臥雲辰致製作の改良版ガラ紡以外は、ほとんどガラ紡の模造品だった。特許制度がない時期だったため、改良版ガラ紡と模造品の両方が受賞している(コラム「明治の特許制度」参照)。ほかに、第1回の水車式織物機械で受賞した渡辺恭・柴田徳蔵兄弟が、その際入手したアメリカ製品の図式を元に改良を重ねて、足踏機で再度受賞している。

次いで多かったのは、農業機械である。勧農局(三田農具製作所)が籾摺機やポンプなどで受賞しているが、すべて外国製品の模造だった。しかし、海外の大農場向けの機械は日本でそのまま使うには不適当で、農業機械はその後も外国技術を輸入するのではなく、日本独自の方向に発展していく。

原動機類では、民間からの出品も徐々に増え、蒸気動力利用の萌芽が窺える(この2年後には、蒸気機関を使った大規模な紡績業として有名な大阪紡績会社も操業をしている)。

勧業政策の面では、博覧会により国内各地から出展品が集積されるため、各地の産業状態を把握することができた。しかし、民間には、博覧会出展が利益を生むという認識はまだ浸透していなかったようだ。

第4区機械 出品状況へ(画像なし)

第3回内国勧業博覧会 1890(明治23)年 東京

内国勧業博覧会も3回を数え、次第に社会に定着していく。政府出展品が審査対象外とされ、ここから民業振興の性格が明確となった。褒賞の等級が商品価値を左右するため、審査に対する不満も出るようになる。1884年の商標条例を皮切りに特許制度の整備も進みつつあった。出展品数は前回を凌ぎ、その種類も多様化し、機械製品の分類が詳細化される。

民間出品は前回の約4倍も増加したものの、大型機械については参考として展示された官製品のみで、最も出展数が多かった「気球・汽車・汽船等」の部門でも、大半は馬具で、蒸気車や電車の出展は一品もなかった。会場内に東京電燈株式会社の藤岡市助が輸入の電車を走らせてはいたが、特に鉄道関係はまだ官営が中心であったためにこのような状態だった。造船業は早くから産業化・民営化されており、川崎造船所が大砲輸送船模型を出展している。鉄製の蒸気船である。参考出品では海軍省の軍艦模型があった。

紡績関係の出展は相変わらず多かったが、格段の進歩は見られなかった。数少ない受賞者の中には、以降受賞を重ねる御法川直三郎の名前がある。

農業機械では、渡辺万吉の軽便打簸器(馬力脱穀機を人用に改造)が受賞している。人力の省力化を図ろうとしていた農商務省の意図とは逆行するが、人間の賃金の方が馬の使用より安価だった当時の現状をふまえていた。

原動機部門の出品は17点に留まったが、東京電燈株式会社がエジソン・ダイナモ(発電機)の模造等を出品し、電力の時代の到来を示した。中央発電による電力事業のはじまりは、この東京電燈株式会社(1886年設立)で、白熱灯を供給した。その後次々に、大阪、京都などで電灯会社が作られている。出展品では、ほかに、石川島造船所が「舶用高圧蒸気機械」で賞を得ている。民間機械工業がめばえつつあった

第7部機械 出品状況へ(画像なし)

第4回内国勧業博覧会 1895(明治28)年 京都

ここにきて、工業部類以外は、軒並み出展品が減少するという事態が起きた。日清戦争の影響による造船所の繁忙、輸送船徴用による運送手段の欠如などが一因といわれる。

注目度の高い原動機部門の出展は7点に留まり、芝浦製作所(現「東芝」)製の風車や藤井総太郎の柱付験水器(ボイラーの気圧上昇による事故を防止する装置)が受賞している。

しかし、新しい産業は着実に育っており、発電・電気応用の部が新設されている。前年に設立された京都電気鉄道による、日本初の営業用電車も京都市内を走行していた(モーターは、国産と輸入の両方)。電気の分野は輸入に頼る部分も少なくなかったが、沖牙太郎(現「沖電気工業」の創始者)が電信機や電話機を、芝浦製作所が変圧器やアーク灯などを出品して受賞している。

紡績関係機械は、出品数だけ多い低迷の状態であった。その中で、会場内で運転された御法川直三郎出展の製糸機(四条繰糸機=生糸を巻き取る小枠をこれまでの二つから四つに増やして生産性を向上させた)は好評を得て、その後全国に設置されていった。

他に特筆すべき出展品はあまりないが、浅沼藤吉(浅沼商会)、杉浦六右衛門(のちの「コニカ」)、山田与七(現「古河電気工業」)ら、今に続く企業の創始者達の出展が目を引く。内国勧業博覧会は商品宣伝の場としての地位を得て、民間にも活用されつつあったようだ。

第4回内国勧業博覧会の出展品

第7部機械 出品状況

分類 機械 出品数 画像
46類 原動機 7 サムネイル一覧へ
47類 伝動機 78 サムネイル一覧へ
48類 工匠 24 -
49類 製造 171 サムネイル一覧へ
50類 運搬 60 -
51類 揚水、送風 8 -
52類 消防 11 -
53類 農業 5 -
54類 採鉱、冶金 0 -
55類 土木建築 0 -
56類 発電、電気応用 131 -
57類 測定、試験 2 -
合計 497 10 サムネイル一覧へ
官庁出陳参考品 - サムネイル一覧へ
出典:

『第四回(明治廿八年)内国勧業博覧会審査報告』 第四回内国勧業博覧会事務局 (1896)

  • 調革から採取する試験片 標準画像を開く
  • 長谷川政七の軽便改良ジャガード 標準画像を開く
  • 東京工業学校出品の一馬力半石油発動機八分一縮図 標準画像を開く
  • 伊沢信三郎出品の二挺杼バッタン運転機 標準画像を開く

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