1851年第1回ロンドン万博

世界初の万博、大成功

【コラム】水晶宮の建設とその後

第1回ロンドン万博の会場については、開催1年前にコンペを行い、245もの案が出たにもかかわらず、決定的なものが出なかった。そこで王立の博覧会委員会は独自に建設プランを作り、巨大なレンガ造りの建物を発表したのだが、巨大で重苦しい建物は不評であった。

そんな折、第六代デヴォンシャー公爵邸の庭園技師で、数々の温室を設計したパクストン(J. Paxton)の会場建築案が王立委員会に持ち込まれた。パクストンが1850年7月6日のIllustrated London Newsにその設計図を公開したところ、世論の大きな賛同を得た。そこで彼の設計が採用されることとなった。当時の最新技術である鉄とガラスを駆使し、工場で製造された部品を現地で組み立てるプレハブ工法を用いた長さ約563m、幅約124mの建物で、たったの10カ月という短期間で完成させた。使われたガラスの数は30万枚、内部は赤、青、白、黄色で塗り分けられ、建物外部は白またはストーンカラー(灰色または青灰色)で、縁は青で飾られた。この美しい建物に水晶宮というニックネームを与えたのは、1850年11月2日のパンチ誌(Punch)であるという。

水晶宮は、博覧会終了後も取り壊しを惜しむ声が多かったため、1854年にロンドン郊外のシデナムに移設された。新水晶宮は、面積を拡大し、植物園、博物館、コンサートホールなどを持つ巨大な施設として生まれ変わり、市民の憩いの場、娯楽の場として親しまれた。ヴィクトリア女王とアルバート公夫妻もしばしばここを訪問し、福澤諭吉も日本の文久使節団の一員として1862年に訪れている。しかし、この水晶宮は1936年に火災によって焼け落ちてしまい、現在では跡地は公園となっている。

参考文献:

橋爪紳也 『万国びっくり博覧会 : 万博を100倍楽しむ本』 大和書房 2005 <D7-H48>
久島伸昭 『「万博」発明発見50の物語』 講談社 2004 <D7-H45>
松村昌家 『水晶宮物語』 筑摩書房 2000 <D7-G58>
吉田光邦 『万国博覧会 : 技術文明史的に』 改訂版 日本放送出版協会 1985 <D7-67>