1873年ウィーン万博

明治政府初参加

【コラム】国際的な特許制度

欧米では、産業革命以前に近代特許制度の確立が国ごとに進んでいた。しかし、外国人により特許の確保だけが行われて、国内での生産がなされないと、輸入に頼らざるを得なくなるため、その場合の権利取り消しや、適正な条件で他者への実施許諾を強制する制度が登場する。

オーストリアでは、1年間未実施の場合、特許権が強制的に収用されたため、ウィーン万博に出展すると最新技術を模倣される恐れがある。ただでさえ、万博出展品の模倣事件が頻発する状況にあった。そこでオーストリア政府は、出展品は収用の対象外とする特別法を制定し、また、工業所有権の国際会議を開催した。この会議は、1878年第3回パリ万博時にも行われ、国際博覧会に出品された発明は保護すべきであることなどが確認された。

討議を経て、1883年、工業所有権の国際的保護を定めたパリ条約が締結される。ここで、国内外の発明者を平等に扱う原則や、同盟国内での出願日付の扱い等が定められた。

参考文献:

石井正 『歴史のなかの特許 : 発明への報奨・所有権・賠償請求権』 晃洋書房 2009 <A411-J188>