
第3章 喫茶店の広まり ~純喫茶の登場~
明治末期から大正にかけて、第2章で紹介したような「カフェー」と名が付く店が増え、関東大震災を挟んでますます多くの喫茶店が誕生します。一方、一部の店では風紀の乱れなども見られるようになります。第3章では、カフェーの中でもお酒や女給サービスを中心とする店に対抗して、「健全さ」を売りにして登場した、いわゆる「純喫茶」に焦点を当て、それぞれの店の特徴や客層から、大正後期~昭和初期において、純喫茶がどのような場であったのかをご紹介します。
3-1 関東大震災後の喫茶店
大正時代に入り、カフェーをはじめとした喫茶店に人々が集う文化が広まっていく中、東京では大正12(1923)年の関東大震災で、プランタンやパウリスタ(→第2章2-2)をはじめ、多くの店が被災しました。
写真時報社 編『関東大震災画報 : 写真時報』(写真時報社 1923)
しかし、震災後数年のうちに新たな喫茶店が多数誕生します。当時は安い家賃で借りた店舗を改装して、自分好みの喫茶店を始める若者も多くいたようで、昭和5(1930)年の『東京市統計年表』によれば、震災直後、55店舗だった喫茶店が昭和3(1928)年には671店舗に増えていることが分かります。なお、統計には「喫茶店」のほかに「料理店」「飲食店」の項目も存在し、これらと「カフェー」の用語は明確には区別されていなかったようで、統計上も混在していたようです(1)。
東京市 編『東京市統計年表 第26回』(東京市 1930)
喫茶店は、サラリーマンや学生の憩いの場としての役割も果たし、人々の生活の中に定着していきました。神田神保町最古の喫茶店ともいわれる昭和8(1933)年創業の茶房きゃんどるは、学生たちのほか、「俳人の溜り場の代表的な」(2)喫茶店としても知られていました。また、銀座では、高級化した喫茶店が多数現れ、モダンボーイ・モダンガールや観光客で賑わいました。
都市住宅編集部 編『都市と保存 : 保存の経済学 上巻』(鹿島出版会 1975)
『旅 13(4)』(新潮社 1936)
3-2 カフェーの変化と純喫茶の流行
様々な喫茶店が増える一方、「カフェー」という言葉は、コーヒーを飲む場所というよりも、女給の接客サービスと酒類の提供といったイメージが持たれることも多くなっていたようです。
大日本雄弁会講談社 編『人生漫画帖』(大日本雄弁会講談社 1932)
震災後に多数の店が乱立する中で、一部の店では女給の過度な接客サービスなどによる風紀の乱れも目立つようになり、取り締まりも強化されました。東京では、昭和4(1929)年に警視庁が「『カフェー』『バー』等取締要綱」を通達しています。そこには、著しく風紀を乱した営業者に行政処分を上申することのほか、立地や店の構造、営業時間等に関する規制が記されています。
警視庁総監官房文書課記録係 編『警視庁事務年鑑 昭和4年』(警視庁総監官房文書課記録係 1931)
昭和10年代には、過度な接客をするカフェーとは異なる「健全さ」をアピールする店も増えました。東京や京都、大阪など各地の都市で「健康的な」発展を目指す喫茶店の組合が誕生しています。銀座で複数の喫茶店を展開する東京工房が中心となって結成した「東京茶店集団」の広告には、「街を健康的な明るさに輝やかせ」る喫茶店が新時代を担うという意気込みが示されています。
『スタア 4(13)(74)』(スタア社 1936)
こうした中で、過度な接客をするカフェーとは区別する「純喫茶」という言葉も使われるようになりました。ここでは、文化人たちの語らいの場となった純喫茶を紹介します。
ブラジレイロ
昭和5(1930)年に大阪梅田に開店、以後全国展開した「ブラジレイロ」。その広告には、「アルコール分を全廃し」「男女どなたでも」といった文言が見られ、女給の過度なサービスがあるようなカフェーとは異なる健全な場であることを売りにしていることがうかがえます。
昭和9(1934)年に開店した福岡のブラジレイロには、夢野久作、原田種夫、北原白秋、火野葦平等、文学を志す者たちが集まり、そこから雑誌が生まれることもありました。当時のブラジレイロの跡地には、現在、原田種夫の文学碑が建っています。原田は酒を飲まなかったため、酒を出さない喫茶店が文学談義の場となったようです。彼の日記や随想には度々ブラジレイロが登場し、「そのころ、わたしたち文学青年のいこいの場と言えば、(中略)「ブラジレイロ」という喫茶店」(3) とあるように、多くの仲間が福岡のブラジレイロに通っていたことがわかります。また、昭和6(1931)年開店の京都のブラジレイロについては、詩人・天野忠が、「あすこのコーヒー、濃い味がうまかった。」(4)と語っています。
照明学会照明智識普及委員会 編纂『京都・大阪・神戸明りの名所』(照明学会照明智識普及委員会関西委員会 1933)
『美術新論 6(2)』(美術新論社 1931)
きゅうぺる
きゅうぺるは、童話作家でもある道明真治郎が昭和7(1932)年に銀座で「街の応接間」を目指して実験的に始めた喫茶店で、永井荷風 をはじめとする文学者たちも通ったことで知られています。道明は俳句も作る人物で、きゅうぺるでは句会が開かれることもありました。また、演劇界の人々が集まって演劇雑誌の編集会議が開かれたりと文学者・芸術家の集まる場となっていきました。
伊藤整 等編『日本現代文学全集 第76 (堀辰雄集)』(講談社 1961)
『永井荷風』(角川書店 1956)
カフェーの女給をモデルにした『つゆのあとさき』を書くなど、女給目当てのカフェー通いでも知られる荷風ですが、きゅうぺるでは常連たちとの会話を楽しみました。荷風が決まって座る席があり、暗黙の指定席のようになっていたようです。日記『断腸亭日乗』からは、毎日のようにきゅうぺるに通っていたことがわかります。
五月三十一日 …晩間尾張町竹葉亭に飯して後きゆうぺるに少憩して帰る。
六月一日 …晩間銀座食堂に飯して後きゅうぺるに少憩してかへる。
六月二日 …夜きゆうぺるにて京屋印刷所の児玉氏より金参百八拾参円四銭小切手受納。
六月四日 …夜銀座食堂に飯して後茶店きゆうぺるに少憩してかへる。
六月六日 …暮るゝを待ちて銀座に往き竹葉亭に飯し茶店キユウペルに少憩してかへる。
永井荷風『断腸亭日乗』昭和10年5月31日から6月6日までの抜粋
『永井荷風日記』第4巻 (断腸亭日乗 第4(昭和9年-昭和11年)),東都書房,1959 pp.136-137 【915.6-N128n】
『永井荷風』(角川書店 1956)
きゅうぺるでは、コーヒーだけでなく、客の要望に応えてお茶漬けなども提供しており、そのメニューからも、都会で一息つける家庭的な場を目指していたことがうかがえます(5)。
3-3 音楽を楽しむ喫茶店
その頃のカッフェ・パウリスタは中央にグラノフォンが一台あり、白銅を一つ入れさへすれば音楽の聴かれる設備になつてゐた。
芥川龍之介「彼 第二」『芥川竜之介全集』第7巻 (小説 第7), 岩波書店, 1955【918.6-A414a2】)初出:雑誌『新潮』24(1) 1926.1.
蓄音機や自動ピアノなどで音楽を流す喫茶店は、大正時代には既に存在したようです。
その後、昭和に入り、大手レコード会社が複数設立されるなど日本でレコード市場が広がるにつれ、レコードで西洋音楽を聴かせる喫茶店も次々と登場し、人気となりました。昭和10年代(1930年代)にはレコード鑑賞を目的とした喫茶店が生まれ、聴かせる音楽も、クラシック、ジャズ、タンゴとバラエティーに富んでいきます。
豪華な店内で、レコードで西洋の音楽を聴きながらコーヒーを飲む、というスタイルはモダンなもの、として流行しました。第1章で紹介したミルクホールは、昭和に入っても庶民的な喫茶店のように利用されて人気でしたが、銀座ではミルクホールの隣に同じ経営者がレコードを聴かせる高級純喫茶を作り、それぞれの客層が全く異なるといったこともあったようです(6)。一方、レコードが高価だった当時、レコードを購入することが難しい学生などの音楽ファンにとっても、音楽を聴くことのできる喫茶店は貴重な存在でした。
『ホーム・ライフ 2(11)』(大阪毎日新聞社 1936)
名曲喫茶
後に「名曲喫茶」と呼ばれるような、西洋のクラシックのレコードを聴かせる喫茶店も登場しました。クラシックを聴かせる店では、客にも静けさが求められました。また、1曲が長く、時間のかかるクラシックは客の回転が悪いという面もあり、曲の希望が殺到すると自分の希望する曲がなかなか聴けず足が遠のいた、といったこともあったようです。
『スタア 3(20)(58)』(スタア社 1935)
『スタア 4(1)(62)』(スタア社 1936)
整形外科医であり、詩人でもあった河邨文一郎の「銀座ダット」という詩からは、名曲が売物の喫茶店でどのように曲が聴かれていたかをうかがい知ることができます。
粋な紳士たちが息をころし、
折目正しいズボンを重ね、腕を組み、
薄暗い一隅から湧き出るレコードの調べに
首をかたむけ、眼をつむり。
神がかりの音楽。
河邨文一郎『河邨文一郎詩集』,思潮社,1982.7【KH258-416】) 初出は1941年
ジャズ喫茶
関東大震災後に、東京や京都のダンスホールやカフェーでは、ジャズの生演奏やダンスが流行しました。しかし、男女が夜遅くまで踊ったり大音量で演奏したりするようなことは、「3-2 カフェーの変化と純喫茶の流行」で紹介したように風紀の乱れとして取り締まられることもあったようです。
昭和に入りレコードが広まると、生演奏ではなく輸入盤のレコードを取り揃えてジャズを聴かせる喫茶店が誕生しました。後にいわゆる「ジャズ喫茶」と呼ばれるようになる喫茶店です。これらの喫茶店は、愛好家や演奏家が、踊るためのものではなく鑑賞の対象としてジャズを仲間とともに聴き、交流しながら学ぶ場として重要な役割を担いました。
『スタア 4(5)(66)』(スタア社 1936)
『スタア 6(21)(130)』(スタア社 1938)
- ^初田亨ほか『カフェーと喫茶店 : モダン都市のたまり場』,INAX,1993.11 pp.5-10 【DH475-E434】
- ^幡谷東吾「茶房“きゃんどる”梁山泊」本阿弥書店 [編]『俳壇』2(11)(18), 本阿弥書店, 1985.11, p.98【Z13-2897】
- ^原田種夫『実説・火野葦平 : 九州文学とその周辺』, 大樹書房, 1961, p.21【910.28-H461Hz】
- ^和田洋一 [ほか]『洛々春秋 : 私たちの京都』, 三一書房, 1982.2, p.170【GC156-147】
- ^野口孝一『銀座カフェー興亡史』, 平凡社, 2018.2. p.192 【DH475-L1129】
- ^『実業の日本』37(17), 実業之日本社, 1934-09, pp.60-61【Z3-511】
