
第2章 「カフェー」と呼ばれた喫茶店 ~文化を育む場所~
第1章で見たように、明治時代の中頃から日本に新しい飲み物が伝わり、それを楽しむ場も増えていきました。加えて、留学帰りの人々からヨーロッパの喫茶店の情報がもたらされると、日本にもこうした店を求める人々が現れます。第2章では、多くの文学者が集まった「メイゾン鴻の巣」や、東京・大阪の「カフェー」と呼ばれた喫茶店、京都で学生や文学者に愛された「鎰屋」を、芸術や文学との関わりに着目しながらご紹介します。
2-1 メイゾン鴻の巣
明治の中頃、留学帰りの人々は、小説やエッセイを通してヨーロッパの喫茶店の様子を紹介しました。
その一人である森鴎外がドイツを舞台に書いた『うたかたの記』には、芸術家や学生たちが喫茶店で交流する場面が描かれます。
これバワリアの首府に名高き見ものなる美術学校なり。(中略)ここに来りつどへる彫工、画工数を知らず。日課を畢へて後は、学校の向ひなる、「カツフエエ、ミネルワ」といふ店に入りて、珈琲のみ、酒くみかはしなどして、おもひおもひの戯す。
森林太郎「うたかたの記」『鴎外全集 』第5巻,鴎外全集刊行会,昭和2 , pp3-4【520-1】
初出:明治23(1890)年8月、雑誌『しがらみ草紙』
また同じく留学帰りであった、パリから帰国した美術史家の岩村透(1870-1917)は、『巴里之美術学生』というエッセイで、芸術家の集まるサロンやカフェーが日本にはないことを批判します(1)。こうした情報は、日本の若い芸術家や文学者に強い印象を与えました。
文芸懇談会「パンの会」を設立したうちの一人、詩人の木下杢太郎(1885-1945)は、詩人や画家が交流できる店を探す中で、明治43(1910)年に日本橋小網町に開店した西洋料理屋「メイゾン鴻の巣」に目を付けました。木下はここを「まづまづ東京最初のCaféと云つても可い家」と評し(2)、日記にも「Café Quônosou」と書くなど(3)、カフェーとして認識していたようです。木下はメイゾン鴻の巣をよほど気に入ったと見え、店主の奥田駒蔵に「該里酒」という詩を贈っています(4)。
『奇蹟 1(1)』([奇蹟発行所] 1912)
太田正雄 著『木下杢太郎日記 第2巻 (日記 2 明治四十三年-大正十三年)』(岩波書店 1980)
川沿いに建つ店の2階からは、「あっちこっちの灯火がチラチラと水に映」り、「ヴェニスの気分」を感じられる夜景が見えたと言います(5)。また、洋食とともにコーヒーやお酒も提供され、中でも比重の異なる5種類の酒を重ねて作る「五色の酒」が有名でした。「新しい女は五色の酒を試みないやうでは話せないなどゝ、此の頃の男の方は私達をからかはれるのですが、兎に角五色の酒と云ふものも、一寸ハイカつたものかと存じます」と伝える女性客もいます(6)。
メイゾン鴻の巣には、『三田文学』や『スバル』の関係者たちも訪れました。店は何度か移転しますが、文学者たちとの関わりは続き、大正6(1917)年には芥川龍之介の『羅生門』出版記念会が開かれました。
日本近代文学館 編『日本近代文学図録』(毎日新聞社 1964)
日本近代史研究会 編『総合日本史 : 写真図説 第7巻 (近代篇 中)』(国際文化情報社 1956)
2-2 東京のカフェー
メイゾン鴻の巣が開店した1年後の明治44(1911)年には、「カフェー」を名乗る店が東京の銀座に次々に登場します。ここでは、京橋区日吉町にできた「カフェー・プランタン」、京橋区尾張町にできた「カフェー・ライオン」、そして京橋区南鍋町にできた「カフェー・パウリスタ」について取り上げます。
カフェー・プランタン
東京で「カフェー」の名を冠した最初期の店のひとつであるカフェー・プランタンは、明治44(1911)年3月に日吉町で開店しました。創業者である洋画家の松山省三の語りによると、ヨーロッパのカフェーを意識して店がつくられたことがわかります。
ミルクホールやビヤホールでは殺風景だし、待合では困る連中が多い、何処か悠々と話し込むだり、人を待合せたり出来る欧羅巴のカフヱーの様な所が一ツ欲しいもんだと、我々が集ると話に出た。そして明治四十四年春三月前記の理由で我々(敢て我々と云ふ)のカフヱープランタンが産れた(中略)ヒドク荒れてた玉突場の跡を借りる事が出来た、場所は日吉町二〇番地。
松山省三「プランタン今昔」『文芸春秋』6(9),1928-09, p149【Z23-10】
開店当時の店内は「狭きを覚えた程の狭さ」であり、「天井を白くして桃色の壁紙張り、佛蘭西の石板画三四枚」飾られ、正面には「各国の洋酒を並べた鏡附きの酒棚」が置かれていたと言います(7)。 ここに「お柳」や「お梅」といった女給が働き、コーヒーや洋酒、洋食を提供しました。
日本近代史研究会 編『総合日本史 : 写真図説 第7巻 (近代篇 中)』(国際文化情報社 1956)
『青鞜 (12)』(青鞜社 1913)
洋酒は、様々な種類を取り揃えていたそうです。小説家である内藤千代(千代子)の自叙伝『惜春譜』には、プランタンで洋酒を飲む場面が鮮やかに描かれます。
両人の前におかれた可愛らしい盃になみなみと溢るゝまで注いだのは、緑色に透きとほる――まるで星のきらめきの様な、――凄いほど美しい美しい洋酒!!
内藤千代『惜春譜』,牧民社,大正4, pp.202-203【特101-190】 「なみなみ」「美しい美しい」は原文では繰り返し符号で表記
メイゾン鴻の巣でも人気になっていた五色の酒は、プランタンでも名物になりました。店主の松山は、「吾等のBARは若い酒徒を未知の世界に導いた事になつたのだ」と回想しています(8)。
また、カフェーという存在がまだ広く知られていなかった時期、維持のためには常連が必要だろうと、1か月50銭の会費で維持会員の倶楽部がつくられました。会員には歌人の吉井勇や劇作家の小山内薫、小説家の永井荷風などが名を連ねました。
永井荷風 著『荷風全集 第18巻 (雑草園)』(中央公論社 1953)
プランタンは、このように文化的サロンの様相を強めた一方で、一般客にとっては近寄りがたい雰囲気をもっていたと言う人もいます。新聞記者の松崎天民は、「ウヰスキーやらアブサンやら、名も知れぬ酒に酔つて、我もの顔に論議遊ばす」常連を見た一般客が、「太胆を抜かれて、あゝ恐ろしや日吉町、ありやあの人達のプランタンで、我等の近寄るべき所に非ず」といって逃げ帰ることもあったと伝えています(9)。
カフエー・ライオン
プランタンと比べて一般の人も入りやすかったと言われていたのが、プランタンと同じ明治44(1911)年の8月に、尾張町で開店したカフェー・ライオンでした。店には近隣の新聞社の社員や外国人も訪れていたようです。美しい女給が働いていたことで評判であり、プランタンと同様にお酒や洋食も提供しました。特にビールの売上量によってライオンが吼える仕掛けが話題を呼びました。
日本近代史研究会 編『総合日本史 : 写真図説 第7巻 (近代篇 中)』(国際文化情報社 1956)
そしてライオン開店の4か月後には、さらに安価に利用できるカフェー・パウリスタが開店します。
カフェー・パウリスタ(銀座)
ブラジル移民事業で功績を遺した水野龍は、サンパウロ州政府からコーヒー豆を無償で提供されます。これをきっかけに、明治44(1911)年12月に銀座の南鍋町で、カフェー・パウリスタの東京最初の店を開きました(全国で最初の店舗は後述する大阪の箕面店でした)。店先にはブラジル国旗が翻り、店内には大理石のテーブルが設置され、女給の代わりに、海軍の下士官を模した制服姿の少年が給仕として働いていました。
横山源之助 著『南米ブラジル案内』(南半球社 1913)
『写真通信 : 教育資料 63號』(大正通信社 1919)
お酒のメニューも多い他のカフェーとは違い、お酒をほとんど置かないパウリスタでは、ブラジルコーヒーが名物となります。コーヒー5銭にドーナツ5銭という安さから、気軽に利用できるカフェーとして親しまれました。東京大正博覧会に際して上京する人のための東京案内『博覧会と東京 : 経済的見物』では、パウリスタがおすすめされています。
カフヱーは近来の流行であるが、其多くの店の給仕女は何れも紅粉に身を装ひ従つて行く客も勢ひ余分の散財をせねばならぬ訳であるが、パウリスタばかりは、給仕は何れも十四五の男児ばかりを使用して、心附は一切謝絶してゐるので、大きに世の好評を博してゐる。名物のコーヒーはブラジル産の香気馥郁として賞すべく、其他、パン、菓子、サンドウイツチ、玉子、果実、牡蠣の類何れも新鮮美味にして且つ価も甚だ廉い。
桜水社同人編『博覧会と東京 : 経済的見物』, 桜水社, 大正3, p165【特102-266】
この銀座店の2階には、青鞜社の女性たちが通っていたことで知られる婦人室がありました。調度品が整えられた、居心地の良い空間であったそうです。
青い壁紙。白い柱。ピンク色の天井。大理石張の円卓。円鏡。真紅な玻璃の一輪挿。菜の花。切子形の電燈。など小ぢんまりして明るさと暖かさと優しさとを取あつめたやうな、婦人室の情景はばかによかつたんです。
内藤千代『惜春譜』,牧民社,大正4, p.275 【特101-190】
芥川龍之介もパウリスタに通っていた人物のひとりです。書簡を見ると、待ち合わせ場所としてよく利用していたことがうかがえます。
『芥川竜之介全集 第7巻』(岩波書店 1928)
『芥川竜之介全集 第7巻』(岩波書店 1928)
コラム:コーヒー関連商品の展開
パウリスタはコーヒーの宣伝普及にも力を入れ、コーヒー関連の商品展開を積極的に行いました。
『二十世紀 1(3)』(二十世紀社 1914)
『三田文学 第1期 第1期 10(12)』(三田文学会 1919)
『早稲田文学 [第2期] [第2期] (171);大正9年2月號』([早稲田文学社] 1920)
『三田文学 第1期 第1期 10(10)』(三田文学会 1919)
2-3 大阪のカフェー
大阪では、大阪市川口の「カフェー・キサラギ」と、カフェー・パウリスタの支店について紹介します。
カフェー・キサラギ
大阪で「カフェー」の名を冠した最初期の店舗のひとつです。創業時期には諸説あり、明治43(1910)年から大正2(1913)年頃と言われています。建物自体は古く、当時を知る客によると、「看板は新しいが、日本建の其頃、よく見かけた所在の洋食店と異らない表構へ」であり、店内も「木卓に椅子が散乱してゐる処などは、今日でなら何所か片田舎の工場の食堂と云つた体裁」であったといいます(10)。それでも「まだ見ぬ巴里、伯林のカフヱを想望」した芸術家の卵たちによって愛好されました。
『上方 (27)』(上方郷土研究会 1933)
このキサラギでは、若手の芸術家たちによる「プライム会」が開かれるようになりました。洋画家の藤森俊三の手記には、プライム会についての記述が見つかります。また『大阪文芸』(11)にはプライム会の広告も掲載されました。「会費は五拾銭、どなたでも来たい人は来なさい」と呼び掛けています。
[百田宗治 等編]『藤森俊三遺稿』(真実社 1920)
『大阪文芸』(大阪文芸発行所)
カフェー・パウリスタ(大阪)
東京を本店として後に全国に支店を展開するパウリスタの1号店は、明治44(1911)年6月に開店した大阪の箕面店でした。紹介記事には、「箕面の大ハイカラ店 旨しくて安いカフエーパウリスタ」という見出しがつけられています。
『日本実業 第5年(7月號)(51)』(銀行新聞社 1911)
『日本実業 第5年(7月號)(51)』(銀行新聞社 1911)
この箕面店は短期間で閉店しますが、明治45(1912)年1月に道頓堀店が誕生します。銀座店とは異なり女給を置いていました。
大阪電気軌道株式会社 編『大阪より奈良まで沿道名所案内』(大阪電気軌道 1914)
織田一磨 画『大阪風景』([ ] 1925)
道頓堀店では、大正3(1914)年から「大阪文芸同攻会」が開催されるようになりました。演劇研究家の木谷蓬吟や小説家の石丸梅外(梧平)らが集まり、継続して100回開かれたといいます。石丸梅外は、「大阪文芸同攻会と云ふものを起して毎月二回道頓堀のカフエーパウリスタの楼上で研究会を開いて居た。(中略)文芸同攻会には毎回四五十名の来会者がある」と綴っています(12)。
2-4 鎰屋の喫茶室(京都)
京都にも、学生や文学者たちに愛された喫茶店がありました。寺町二条の鎰屋の喫茶室です。
鎰屋は元禄9(1696)年に創業した老舗の菓子店です。 店内でお菓子を食べたいという近隣の学生の要望に応えて、店にテーブルと椅子を置いたことに始まり、建物を改築して2階を喫茶室にしました。単に「カギヤ」と呼ばれることが多かったようですが、大正3(1914)年2月4日の『京都日出新聞』【YB-297】の連載記事「カフエー巡」を見ると、「一時はカフエーと云へば此のカギヤを指した位のものである」とあるように、利用客にはカフェーとみなされていたようです。大正5(1916)年の雑誌『実業界』では「京都のカギヤ菓子舗は店舗に隣りて、洋風のハイカラな茶寮を設け、下戸の新らしやを嬉ばしてゐる」と紹介されています。
『製菓実験 7(4月特輯號)(4)』(製菓実験社 1936)
『実業界 13(1)』(早稲田同文館 1916)
カギヤは特に、近くにあった第三高等学校の学生たちから愛されました。三高出身の哲学者真下信一は、当時を次のように語ります。
まづ行く先は寺町二条の「かぎや」といふ、ほとんど三高出の帝大生と三高生ばかりが集る喫茶店である。(中略)私達はまるで「出勤する」かのやうに、午後四時前にはきまつて「かぎや」の二階喫茶店にかよつたものである。十銭のコーヒーと、秋ならば栗かのこをたべて、あとはただのお茶ばかりのみながらそこで五時半頃まで時間をつぶす。
真下信一「青春の彷徨 京都時代の武田麟太郎」『実存と現実』,白日書院,昭和23, p158【104-Ma64-2ウ】
また小説家の中谷孝雄は、三高時代の友人である梶井基次郎とカギヤによく立ち寄ったことを回想しています。「そこにはお朝さんといふ美人の女給さんがゐて、私たち三高生の間ではモルゲン(ドイツ語の朝)と呼ばれて大そう評判であつた」(13)のだそうです。その梶井基次郎の作品『檸檬』には、鎰屋が登場する印象的な一節があります。
裸の電燈が細長い螺旋棒をきりきり眼の中へ差し込んで来る往来に立つて、また近所にある鎰屋の二階の硝子窓をすかして眺めたこの果物店の眺めほど、その時どきの私を興がらせたものは寺町の中でも稀だつた。
梶井基次郎「檸檬」『梶井基次郎小説全集』上巻, 作品社, 昭11, p. 10【699-20】
このように明治末期から大正前期にかけて、カフェーと呼ばれる喫茶店が登場し、芸術家や文学者、学生たちに愛好されました。こうした喫茶店が増える中で、次第にお酒や女給のサービスを売りにする店も増えていきます。第3章では、このような店に対して出てきた新しい喫茶店の形について紹介します。
- ^芋洗生 ほか『巴里之美術学生』画報社, 明36.1, pp.8-13【82-571】芋洗生は岩村透の別名。
- ^木下杢太郎『食後の唄 : 詩集』アララギ発行所, 大正8, p.6【特101-589】
- ^太田正雄『木下杢太郎日記 第2巻』 (日記 2 明治四十三年-大正十三年), 岩波書店,1980.1, p.64【KH262-3】
- ^木下杢太郎『食後の唄 : 詩集』アララギ発行所, 大正8, pp.14-16【特101-589】
- ^里見弴「化学的変化」『怡吾庵酔語』,中央公論社,1972, p.114 【KH533-3】
- ^清水素登子『ガールレター : 密書』大盛堂, 大正4, p. 225【特109-339】
- ^松崎天民ほか『松崎天民選集』第2巻(人生探訪), クレス出版, 2013.11, pp.53-54【GB411-L45】
- ^松山省三「プランタン今昔」『文芸春秋』6(9), 1928-09, p.152【Z23-10】
- ^松崎天民ほか『松崎天民選集. 第2巻 (人生探訪)』, クレス出版, 2013.11 , pp. 55-56【GB411-L45】
- ^寺川信「大阪カフエ源流考」『上方』(27), 上方郷土研究会, 1933-03, p.48【雑19-156】
- ^『大阪文芸』2巻2号,大阪文芸発行所, 1912-02, p.34【YA5-1639】(マイクロフィルム)
- ^石丸梅外「大阪の郊外より」『早稲田文学[第2期]』,(105),1914.8, p.42 【雑8-40】
- ^中谷孝雄「梶井基次郎」『中谷孝雄全集』第4巻, 講談社, 1975, p.253,【KH418-41】
