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第一章 インキュナブラとは何か

インキュナブラの定義と暦

インキュナブラの一般的定義は「15世紀中に金属活字を用いて印刷されたもの」となっています。ここから注意しておく必要のある点がいくつか出てきます。金属活字を用いない木版本 (xylographic book) は普通インキュナブラに含めません。またインキュナブラは必ずしも書物に限定されていません。現在でも小冊子、パンフレットを書物に含めるかどうかは意見の分かれるところですが、広告のような一枚もの (broadside) も金属活字で印刷されていればインキュナブラに含まれ、一枚ものの暦や免罪符もインキュナブラに含まれます。さらに重要な点はインキュナブラと目される印刷物が印刷された日付がわかるかどうかということです。近代の本は、出版されるまでに検閲 (censorship) を受けた歴史から出版事項 (出版地、出版者、出版年) を本に印刷することが慣習となっていますが、実はインキュナブラの過半数は印刷年が明記されていません。さらに印刷地や印刷者も明記されていないものも多く、活字の比較を行うなどして出版事項を推定、確定して行くのがインキュナブラ学なのです。例えばグーテンベルクが印刷したとされる『42行聖書』には出版事項は全く記されていません。それがインキュナブラであると言えるのはフランス国立図書館に所蔵されている『42行聖書』の末尾に、この本のルブリケーションを行った職人が1456年の聖バーソロミューの日に完成させたという書き込みを残しているからで、これにより『42行聖書』は1456年には既に印刷されていたことになります。1455年にAeneas Silvius Piccolominiが書いた手紙で、前年秋にフランクフルトで見本刷りを見たと記していることなどから『42行聖書』は1454-55年頃に印刷されたものとされています。このようにインキュナブラにもともと印刷されていない情報を集めたり、使われた活字から印刷所を突き止め、その活動範囲などから印刷年を推定することで印刷物がインキュナブラであるかどうかを判定することができるわけです。

しかし印刷年が1500年の近くであるものについては別の注意が必要になります。それはインキュナブラ時代の新年は都市により必ずしも1月1日に迎えたわけではないということです。フランスの都市は復活祭の日に新年を迎えました。この日は移動祝祭日 (3〜4月のある日) なので毎年新年を迎える日が変わったのです。ヴェネツィアでは3月1日に新年を迎えました。これは古代ローマ時代と同じで、3月が年の最初の月でした。今でも9月をSeptember (7番目の月) 、10月をOctober (8番目の月) 、11月をNovember (9番目の月) 、12月をDecember (10番目の月) というように2ヶ月ずれて呼ぶのは、古代ローマの月の名称を受け継いでいるからです。一方フィレンツェでは3月25日に新年を迎えました。こちらはキリストが受胎した日を年の初めとするものです。またクリスマスに新年を迎えた都市もありました。ビザンティンの都市は9月1日に新年を迎えました。このように各地で新年を迎える日が異なりますので、例えばある印刷物に「1500年2月18日に印刷した」という記載があった場合、これが新年を1月1日に迎える都市で印刷されたものなら間違いなくインキュナブラですが、3月以降に新年を迎える都市で印刷されたものでしたら、その時点は1月1日に新年を迎える都市では1501年になっていますのでインキュナブラでなくポスト・インキュナブラであるということになります。インキュナブラの目録では印刷年を記載する場合、1月1日より後で新年を迎えた都市の場合、1月1日に新年を迎えた都市での年代も合わせて記載するようにしています。例えば「1496年2月6日にローマで印刷された」と記載のあるインキュナブラはそのまま「6 Feb. 1496」と記載しますが、ヴェネツィアで印刷されたものであれば「6 Feb. 1496/97」というふうに記載し、他の都市では1497年であることがわかるようにします。印刷された月日がわかる場合はこのように1月1日に新年がくる暦に換算できますが、月日がわからなければ換算ができません。「1500年に印刷された」と表記のある印刷物も、印刷された都市によっては実際には1501年に印刷されたものである可能性が残ります。例えばパリでは1500年の新年は4月19日に、1501年の新年は4月11日に迎えていますので、パリの印刷物は1500年4月19日から1501年4月10日の間に印刷されたものに対し「1500年に印刷された」と表記されています。正確な月日がわからなければ、これもインキュナブラとして扱われます。また、換算年が1501年であればポスト・インキュナブラとして扱われます。

「著名言行録」のコロフォン

ローマ数字で 「M.CCCC.LXXXVII.Die.VIII.Marcii」 とあり、1487年3月8日に印刷されたことがわかります。

「神の国」のコロフォン

「Anno salutiferi virginalis partum octogesimonono supra milesimu et quatercentesinum: duodecimo Klendas Martias」とあり、1489年3月のカレンデより12日前、すなわち1489年2月18日を表わします。ヴェネツィアでは3月1日に新年を迎えていたため、ユリウス暦では1490年2月18日になります。

最後に中世ヨーロッパでの日付の表現法について解説しておきましょう。
中世ヨーロッパで使われた暦法は古代ローマで用いられたユリウス暦で、1年を365.25日とする太陽暦です。しかしローマもかつては太陰暦に準じた暦を用いており、各月はほぼ新月の日にはじまり、その日をカレンデと呼びました。この言葉はもともと「布告する」という意味で、暦をカレンダーと呼ぶのはここからきています。キリスト教会は固有の行事を加えた教会暦を定着させ、それを聖職者や信者に知らせる暦 (万年暦) や時祷書が作られました。暦 (almanac) や時祷書はインキュナブラとしても多数印刷されています。暦はローマ式の表記がされており、太陰暦のころの用語がそのまま使われました。毎月の最初の日は「カレンデ」と呼ばれ、3、5、7、10月は15日を、その他の月は13日を満月の日という意味の「イドゥス」と呼びました。また満月の日の9日 (nonus) 前が上弦の半月の日にあたりますので、3、5、7、10月は7日を、他の月は5日を「ノネ」と呼びました。この3つの日が基準日で、一般の日はこの基準日の何日前という形で表現しました。例えば閏年でない2月18日は次に来る最も近い基準日である「3月のカレンデ (1日) 」よりその日も含めて12日前ですので「ante duodecimo Kalendas Martias」と表記します。3月11日は次に来る最も近い基準日である「3月のイドゥス (15日) 」よりその日も含めて5日前ですので「ante quinto Idus Martias」と表記します。

インキュナブラにはこのような複雑な表記で日付が書かれていても、インキュナブラ目録では今日の普通の日付の表現に直してあるのが普通です。


復活祭の計算や古代・中世の暦については以下のサイトが参考になります。

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