第一章
インキュナブラとは何か


インキュナブラという言葉はラテン語incunabulumの複数形incunabulaで、「揺りかご」という意味から転じて「出生地」「初め」を意味します。本の世界では、金属活字により印刷され、印刷年が1500年以前のものをインキュナブラと呼んでいます。1500年という区切りは世紀の変わり目という便宜的なもので、1501年から本の姿ががらりと変わったわけではありません。本の姿の変わり目は1530年頃にあるともいわれています。金属活字による印刷術を発明したとされるのはヨハン・グーテンベルク (c.1400-1468) で、1640年には印刷術発明200年祭が行われました。この時初めてインキュナブラという言葉が使われたようです。

写字室 (scriptorium) と写字生

グーテンベルクが最初に印刷した本格的な書物は聖書でした。中世ヨーロッパにおいて書物は手で筆写され (写本) 、そのほとんどがキリスト教関係のものです。聖書はラテン語でbibliaと言いますが、この言葉は元々単なる「本」という意味でした。写本は宗教的目的で作られ、読むためだけでなく、美しい装飾が施された見るためのものでもありました。ですからグーテンベルクの印刷した『42行聖書』も全体が印刷されたのではなく、後でイリュミネーションと呼ばれる装飾を施すことを前提にデザインされていました。写本と同じものを印刷により製作したわけですが、これにより本の製作速度が8倍以上になりました。また価格も相当下がったと思われます。

本の製作が印刷によるようになりますと、その生産量が増えてきます。1480年代にはヨーロッパでの1年間の新刊点数 (タイトル数) が1,000点を超え、17世紀初頭では3,000点を、19世紀初頭では5,000点を超えました。この背後には本の小型化、活字書体の標準化、タイトル・ページや頁付けの装備など本のデザインの変化、活字製作業者・印刷業者・出版業者・書籍商の分業化などがありましたが、19世紀前半に動力機械による印刷機が導入されるまで印刷は基本的に手作業でしたので、今日のような大量生産までには至りませんでした。

ここでは写本から印刷本へと変わる過程にあたるインキュナブラの造本上の特徴を見ておきましょう。インキュナブラは写本とそっくりの本を印刷により製作したのが始まりですから、活字書体の多様性 (本のジャンルや製作地により書体が様々です) や文章での縮約形(contraction) や略字 (abbreviation)の使用、段組欄外注の多用、冒頭のルブリケーションといった写本の特徴をそのまま受け継いでいます。現代の本では当然の約束事となっているタイトル・ページが登場するのは1480年代になってからで、それまで本はいきなり incipitという言葉で始まり、この中でタイトルや著者が表示されました。また印刷地、印刷者、印刷年の表示はコロフォンという本の最後の部分に記されるか、あるいは全く記されませんでした。インキュナブラの実例を見ますと印刷地、印刷者、印刷年がすべて記されているものはそれほど多くありません。

縮約形と略字
ルブリケーション

本に印刷年が記されていないとそれがインキュナブラであるかどうかの判断が難しくなります。これまでのインキュナブラ研究史において、インキュナブラの同定 (即ち、いつ、誰が、どこで印刷したものかの確定) の問題は非常に重要なテーマでした。実はグーテンベルクが印刷したとされるどの本にも彼の名前は記されていません。現在インキュナブラの印刷者 (プリンター) として約1,100ほどの印刷者名が知られていますが、そのうち150ほどの印刷者は名前が記されていないため「Printer of 作品名」という形で印刷者が同定されています。このように印刷者を同定し、いつ、どこで印刷されたかを確定あるいは推定することでインキュナブラの全貌が明らかになってきました。

どのようなインキュナブラが印刷され、それが今どこに所蔵されているかを世界的レベルで明らかにする試みは1904年、ドイツで始まりました。その詳細な目録Gesamtkatalog der Wiegendrucke (略称GW)の第1巻が刊行されたのはやっと1925年になってのことでした。この目録は著者のアルファベット順に配列されており全27巻のうち現在まだ第11巻の分冊を刊行中という膨大なものですが調査は終了しており、その記録カードを含めてGWのデータベースがStaatsbibliothek zu Berlin - Preussischer Kulturbesitzよりインターネット上に公開されています。GWはインキュナブラを同定する全データを記載したていねいな目録ですが、刊行に時間がかかりすぎるため、『全米インキュナブラ総合目録』 (略称Goff) の簡素な目録記入をモデルとしたオンライン総合目録Incunabula Short Title Catalogue(略称ISTC) の編集が1980年より英国図書館で始められ、1997年には約 26,000点のインキュナブラを収録した CD-ROM (略称IISTC)も刊行されました。このISTCデータベースには世界中の所在情報が入っており、以下では1998年に刊行されたIISTC第2版を使ってどのようなインキュナブラが印刷され、それらは現在どこで所蔵されているかについて見てみましょう。

インキュナブラの印刷年と印刷地域(単位:タイトル)
イタリアドイツフランスネーデルランドスペイン・ポルトガルイギリスその他
1451-146002400000
1461-147013723211000
1471-14802,5951,788441376834433
1481-14903,0452,9531,32094426710939
1491-15004,1443,6552,84686664624562

上の表はインキュナブラを印刷年と印刷地域でクロス集計したものです。(印刷年、地域について複数の推定説があるものは、重複してカウントされているものがあります。)インキュナブラの68%はイタリアかドイツで印刷されており、また79%は1481年以降に印刷されています。ラテン語で書かれたものが72%を占め、特に多くのインキュナブラを印刷した都市は多い順にヴェネツィア、パリ、ローマ、ケルン、リヨン、ライプツィヒ、シュトラスブルク、ミラノ、アウグスブルク等で、この9都市で全体の56%を印刷しています。現在26,550 タイトルのインキュナブラが知られ、世界各地で所蔵されています。タイトル数で見ますと、イギリスには約14,000点が所蔵され、米国には約13,000点、イタリア・ドイツにはそれぞれ約12,000点が所蔵されています。日本にも約370 点のインキュナブラが所蔵されており、当館の所蔵数は今のところ15点です。所蔵点数の多い図書館としては英国図書館、バイエルン州立図書館、フランス国立図書館、ボドレイ図書館、ヴァチカン・アポストリカ図書館、米国議会図書館等があげられます。

電子展示会

「インキュナブラ -西洋印刷術の黎明-」は国立国会図書館の電子展示会です。 電子展示会の各コンテンツでは、国立国会図書館所蔵の様々なユニークな資料について、わかりやすい解説を加え紹介しています。

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