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第二部 集う ~知の交流~

見聞の記録

江戸時代後期の人びとは、見聞したことを実によく記録しており、大部の随筆、雑記やスクラップブックのようなものが多数残されている。さらに、奇事異聞や器物を披露しあう会合も開かれていた。ここでは、そうした活動の一端を示す。

38 一話一言 いちわいちげん

  • 〔巻8〕 大田南畝自筆 〔天明(1781-89)頃〕 1冊 22.6×16.9cm <WA19-2>

大田南畝が幕府関係の情報や外国事情などから、江戸の風俗や身の回りの出来事に至るまでを書きとめた随筆。安永4年(1775)から文政5年(1822)頃まで、およそ50年間に及ぶ。全56巻。南畝死後、自筆原本は昌平坂学問所に納められ、現在国立公文書館(内閣文庫)に伝わっているが、6巻分の欠巻がある。そのうちの巻8にあたる部分が本書と考えられている。収録17条中2条は別本を綴じ込んだものであり、他筆を含む。写真は天明5年(1785)年桜島が噴火した時の記事である。桜島が起こし絵になっている。

大田南畝 おおたなんぽ(1749-1823)

幕臣。本名直次郎。南畝、四方赤良、寝惚先生、蜀山人等と号する。19歳の時作った狂詩文を平賀源内等のすすめで『寝惚先生文集』として出版し、文人として名をあげ、天明年間(1781-89)には狂歌界の中心的人物となった。洒落本や黄表紙の著作もある。寛政の改革後は、幕吏として実直に勤務。寛政6年(1794)の学問吟味(人材登用試験)では、目見得以下の首席となった。享和元年(1801)には大坂の銅座に、文化元年(1804)には長崎奉行所に赴任している。晩年には、勘定奉行所勤めのかたわら「蜀山人」の名で狂歌も詠み、再び文名を博した。『一話一言』(38)などの随筆も知られている。

「大田南畝肖像」の資料画像

「大田南畝肖像」(『先哲像伝』<か-74>)

39 流観百図 りゅうかんひゃくず

  • 大田南畝編 〔江戸時代後期〕 1軸 縦33.5㎝ <りニ-17>

大田南畝が古器物、珍獣奇鳥、外国や地方の風俗の図などを収集し、貼り込んだ図巻。知友の所蔵する図を描き写したものが多い。『南畝文庫蔵書目』によれば、本来は正編10巻、続編9巻。正編は当館所蔵の写本10軸により内容を知ることができるが、続編はまとまった所蔵がみられず、天理図書館所蔵本などにより断片的に内容を知ることができるのみである。展示本も、正編に属する図のほか、続編の部分的な目次などを集めたもの。「南畝文庫」「大田氏蔵書」印の捺された紙も含まれ、南畝の筆跡のように見える部分もある。

式亭三馬 しきていさんば(1776-1822)

江戸時代後期の戯作者。版木師菊地茂兵衛の長男として生まれた。通称西宮太助。戯号は三馬のほか、遊戯堂、洒落斎など。9歳から17歳まで書肆翫月堂に奉公し、その後も本屋や、売薬店などを家業とし、文化8年(1811)化粧品「江戸の水」で成功を博した(写真)。商売のかたわら、19歳で初めて黄表紙を著して以来、合巻、滑稽本などの作者としても活躍した。『浮世風呂』『浮世床』などが代表作として知られている。

『江戸時代名物集』の資料画像

江戸時代名物集』(52)所収

40 江戸三芝居紋番付 えどさんしばいもんばんづけ

  • 式亭三馬編 文化12(1815)序 16冊 21.8×17.4cm <寄別5-6-1-1>

式亭三馬が収集した紋番付(役割番付。芝居の看板を写し役者の役割を記した3丁程度の案内)を年代順に綴じ合わせたもの。享保年間(1716-1736)から文化11年(1814)に至る、総計400点近くを収録する。第1冊巻頭の自序によれば、「いにしへ好む心はいとせち」であった三馬が、「とし頃あしここゝよりもとめ出て、やうやう数つもりたる」ものであった。「三馬云 役者附に合せ見れバ宝暦六年ニあたれり」(第2冊)という考証や、「四月十七日同妻子観ス」(天明8年4月、第10冊。写真)という覚えなどが、自筆で書き込まれている部分もある。印記「式亭」「三馬」。

41 落話中興来由 おとしばなしちゅうこうらいゆ

  • 式亭三馬自筆 文化12(1815)序 1帖 26.0×17.4cm <WA19-16>

書名は表紙書き題簽による。裏表紙書き題簽「落話会刷画帖おとしばなしかいすりえじょう」。式亭三馬が収集した文化年間の落話会の刷物8枚を貼り込み、自ら注釈を加えてまとめたもの。刷物のなかには、朝寐房夢羅久あさねぼうむらく、林屋正蔵、三笑亭可楽などの名が見える。書名の「中興」は、江戸落語が元禄期の鹿野武左衛門しかのぶざえもん以後途絶し、談洲楼烏亭焉馬だんしゅうろううていえんば(1743-1822)等により再興したことを指すものであろう。貼り込まれた刷物とともに、三馬が細かに記した注釈により、落語の源流を支えた人びとの様子が伝わる。渋江抽斎、飯島花月、京の藁兵衛(堀野文禄)旧蔵。

42 耽奇漫録 たんきまんろく

  • 〔江戸時代後期〕写 8冊 29.3×19.3cm <わ210.02-2>

耽奇会という文人の会合の記録。文政7年(1824)5月15日から翌8年11月13日まで20回にわたり開催され、珍奇な古書画、古器物などを持ち寄り、考証を加え論評しあった。滝沢解たきざわとく曲亭馬琴きょくていばきん)、山崎美成やまざきよししげ屋代弘賢谷文晁などが参加していた。
写真上の2枚は「大名慳貪だいみょうけんどんの図」。この「慳貪」の使用法をめぐり、中心メンバ―である馬琴と山崎美成との間で論争となり、文政8年3月には絶交に至った。馬琴は、『兎園小説とえんしょうせつ』(43参照)別集にこの論争を記録している。そして、『兎園小説』外集では、美成の志が「不愜」(不快)として、「交遊不全如此。浩嘆何堪」と述懐した。

43 曲亭来簡集 きょくていらいかんしゅう

  • 〔江戸時代後期〕 3帖 21.9×30.4cm <WA25-21>

耽奇会が開かれていた文政8年(1825)、馬琴や山崎美成が発起人となり、屋代弘賢など耽奇会と重なる顔触れが参加して、奇事異聞を披露しあう兎園会とえんかいが始まった。「怪異」は、川瀬一馬氏によれば鈴木牧之すずきぼくし筆とするが詳細は不明。寛政3年(1791)7月の日付がある。馬琴が兄羅文の遺品から見出したもの。文政8年4月1日の兎園会席上で、馬琴は話を追加して披露した。兎園会の報告集『兎園小説』第四集に「七ふしぎ」として収められている。
『曲亭来簡集』は、曲亭馬琴に届いた書簡などをまとめたもの。川瀬一馬氏によれば、馬琴みずから保存編集したものを同氏が復元した。3帖に68通が貼り込まれている。写真はいずれも「花之巻」所収。

  • 43 鈴木牧之書簡(29)の資料画像

「怪異」

馬琴の京坂旅行

享和2年(1802)5月9日の夜、馬琴は山東京伝に見送られて江戸を出立、8月24日まで名古屋、京、大坂などを旅した。出立に先立つ5月6日、馬琴は、前年2月から1年余り大坂に勤めた大田南畝に、田宮由蔵(盧橘)ほか3名の友人を紹介してもらう。下の写真はその紹介状とされるものである。馬琴は彼らと道頓堀の料亭竹亭で狂歌や俳句を作るなどして遊び、出立時も盃を交わした。ことに田宮盧橘とは、7月晦日に共に西鶴の墓に詣でたり、『西鶴名残の友』を譲られたりするなどの交遊があった。この友情は馬琴の帰宅後も続くこととなる。

『曲亭来簡集』の資料画像

曲亭来簡集』(43)所収。