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第二部 集う ~知の交流~

戯作者の著述と生活 1

ここでは、曲亭馬琴と山東京伝をとりあげ、著作活動や生活の様子をうかがうことができる資料を展示する。

44 曲亭馬琴書簡 きょくていばきんしょかん

  • 殿村篠斎宛 天保7年(1836)3月28日付 (『曲亭馬琴書簡』 29軸 縦21.4cm <WA25-27>)

曲亭馬琴(1767-1848)から、伊勢の友人殿村篠斎とのむらじょうさいに宛てた書簡。馬琴は書簡を長々と書き連ねる癖があったが、この一軸も一通の長文の書簡から成る。執筆中の『南総里見八犬伝』『侠客伝』等のこと、大坂の芝居のこと、平田篤胤のことなどを記すが、なかでも「去春琴嶺病中の事抔、何となく胸に浮ミ、一日も往時をしのハさる日は無之候」(資料画像の18行目)と、期待をかけていた息子宗伯(名は興継、号琴嶺。1798-1835)に、前年先立たれた悲歎を綴るのが印象的である。それでも、馬琴は暮らしのために「ま(が)つミをおし払いおし払い、煩悩をかき流しかき流し」(資料画像の22行目)て、著述を続けなければならなかった。

45 後の為の記 のちのためのき

  • 2巻 曲亭馬琴編 〔天保6(1835)頃〕写 2冊 27.3×19.1cm <本別12-17>

滝沢宗伯の追悼録。馬琴が、孫の太郎のために宗伯の事跡をまとめたもの。天保6年成立。馬琴は本書を筆耕に写させ自家に留めるとともに、小津桂窓おづけいそう木村黙老きむらもくろうなどの友人に贈った。展示本は鈴木牧之旧蔵本。上冊本文33丁表の半丁を切り取り、本文を改変して馬琴自筆で牧之の追悼歌を補っている(資料画像の11行目から19行目)。宗伯の死を伝え聞き追悼歌を贈った牧之に対し、滝沢家家蔵の一本を贈ったものと推測されている。下冊61丁には「いつれの時にこのうれひを忘れん。謄写一行毎に涙千行。万巻の書を看破りても人情ハこの界を免れかたかり」と歎きを記している。

46 曲亭来簡集 きょくていらいかんしゅう

  • 〔江戸時代後期〕 3帖 21.9×30.4cm <WA25-21>

浮世絵師葛飾北斎(1760-1849)から曲亭馬琴に宛てた書簡。前日馬琴が不在であったため置いて来た下絵について、校合が済んだならば受け取りたいということ、明朝は書肆平林堂の主人が来るので、その時「為朝之写本」を3丁分程度渡すことを述べる。「下画」(資料画像の3行目)「為朝之写本」(資料画像の8行目)とは、北斎が挿絵を担当し、文化4年(1807)から8年にかけて平林庄五郎等により刊行された、『椿説弓張月』のことと思われる。展示資料は「月之巻」所収。

47 平妖伝 へいようでん

  • 第1-29回 (元)羅貫中撰 (明)馮夢竜補 (清)嘉慶17(1812)刊 6冊 24.0×15.5cm
    第29-40回 (元)羅貫中撰 (明)馮夢竜補  天保7(1836)写 6冊 23.1×14.6cm <寄別13-46>

『平妖伝』は北宋の王則の乱を題材にした小説で、羅貫中の作といわれる20回本と、それを増補した馮夢竜の40回本がある。本書は後者であるが、書き入れがある第29回までの清版6冊と、第29回以降の写本6冊(第29回は重複)から成る。版本部分は天保3年(1832)大坂の河内屋茂兵衛から入手したといわれる。補写部分は、小津桂窓が入手した殿村篠斎旧蔵本を借りて写させたもの。榊原芳野旧蔵。
馬琴は中国白話(口語体の文章)を読みこなし、代表作『南総里見八犬伝』は『水滸伝』をモチーフにしたといわれるが、『平妖伝』も馬琴の愛読書で、館山合戦の部分に影響を見る人もいる。

48 曲亭馬琴書簡 きょくていばきんしょかん

  • 殿村篠斎宛 天保12(1841)3月1日付 路女代筆 (『曲亭馬琴書簡』 29軸 縦21.4cm <WA25-27>)

殿村篠斎に宛てた書簡。晩年馬琴は失明し、『南総里見八犬伝』は亡き息子宗伯の妻みち女が口述筆記した。本書簡が記された天保12年(1841)頃には、すでに馬琴の眼はかなり悪くなっており、本文は路女の代筆、巻頭の追而書おってがき部分のみが馬琴の自筆とされる(資料画像1の3行目)。路女に字を教えつつ書き綴らせる馬琴の苛立ちや、教えられる路女の頭痛までも、彼女自身の手で記されている(資料画像2の4行目)。『南総里見八犬伝』のこと、自著『雅俗要文』を無断で刊行された憤り、眼の治療の様子、妻の死などについても述べられている。

49 南総里見八犬伝 なんそうさとみはっけんでん

  • 9輯98巻 曲亭馬琴著 柳川重信〔ほか〕画 江戸 山崎平八〔ほか〕 文化11-天保13(1814-42) 刊 106冊 22.8×16.0cm   <本別3-2>

安房里見家を舞台に八犬士の活躍を綴った読本よみほん。文化10年(1813)から天保12年(1841)にいたる、足掛け29年を費やして完成した。表紙と各帙第1冊目の見返しは、おおむね犬にまつわるデザインで、趣向を変えてそれぞれ20種類に及ぶ。展示本は馬琴旧蔵の初刷り本。誤字を訂正する馬琴の書き入れも残されている(資料画像の5行目)。写真は、48に記事がみえる第9輯巻16。

曲亭馬琴 きょくていばきん(1767-1848)

江戸時代後期の戯作者、読本作家。日本初の職業的作家といわれる。本姓は滝沢。名は興邦、後にとく。号は著作堂主人など。旗本松平信成の家臣の子として生れたが、父の死後冷遇され禄を離れる。寛政2年(1790)、当時既に戯作界で活躍していた山東京伝の知遇を得、寛政の改革の際禁令に触れ処罰された京伝の代作をして、黄表紙作家として頭角をあらわした。後には読本作家として『椿説弓張月』『南総里見八犬伝』(49)などを執筆した。滝沢家の復興を願い、松前侯の侍医となった息子宗伯に期待をかけたが、その死(44,45)により思うようにはならなかった。さらに、晩年は眼疾により、宗伯の妻路女に口述筆記させるなどの苦労もした(48)。