第3部 いろいろな直筆

第2章 署名(2)

永井荷風(ながい かふう) 1879-1959

永井荷風肖像明治から昭和にかけて活躍した小説家。本名は壮吉。慶応義塾大学教授時代に『三田文学』を創刊、耽美主義の立場から多くの小説・随筆・戯曲を発表した。世情と一線を画す独自の立場に立った江戸趣味の作風を特徴とする。代表作に『あめりか物語』、『すみだ川』、『濹東綺譚』などがある。

森鷗外(もり おうがい) 1862-1922

森鷗外肖像陸軍軍医を務める傍ら小説家、翻訳家として活躍し、近代日本文学の礎を築いた。本名は林太郎。代表作に翻訳『即興詩人』、小説『舞姫』、『雁』、歴史小説『阿部一族』、『山椒大夫』、『高瀬舟』などがある。

116 明治文芸家原稿料請取書〔大正2(1913)年~9(1920)年〕【301-19『明治文芸家原稿料請取書』の表紙

籾山書店と作家との間で出版に際して交わされた印税領収書や原稿料領収書を製本したもの。高浜虚子たかはまきょし、内藤鳴雪めいせつ荷風鷗外泉鏡花からの領収書のほか、島崎藤村との間に交わされた出版契約書も収められている。残されることが極めて稀な書類であるため、当時の出版事情を知る上で貴重な資料といえる。掲載資料は荷風の小説『散柳窓夕栄ちるやなぎまどのゆうばえ』及び鷗外の翻訳戯曲集『新一幕物』の原稿料領収書部分。それぞれ、本名の「永井壮吉」、「森林太郎」の署名とともに押印が確認できる。

『明治文芸家原稿料請取書』の森鴎外(本名林太郎)署名『明治文芸家原稿料請取書』の永井荷風(本名壮吉)署名

116関連資料:籾山書店の本

籾山書店の本自身が俳人でもあった籾山仁三郎もみやまにざぶろうは、高浜虚子から俳書堂を譲り受け、籾山書店を興し、文芸方面の良書を数多く出版した。中でも明治末期から大正初期にかけて発行した一連の本は、橋口五葉の手による胡蝶の図案を配した壮麗な装丁が施され、「胡蝶本」と称される。森鷗外永井荷風をはじめ、泉鏡花谷崎潤一郎らの小説計24タイトルが胡蝶本として刊行され、人気を博した。特に荷風の『新橋夜話』、『すみだ川』などは好評を得て版を重ねた。籾山と親交が深かった荷風は、明治44(1911)年から大正7(1918)年のほとんどの著書を籾山書店から出版した。

  • 森林太郎訳『新一幕物』【338-139『新一幕物』の表紙
  • 永井荷風『新橋夜話』【KH385-8『新橋夜話』の表紙
  • 永井荷風『すみた川』4版【KH385-7『すみた川』の表紙

葦原邦子(あしはら くにこ) 1912-1997

女優、宝塚歌劇の男役スター。夫は画家の中原淳一。歌唱力と男役らしい芸風で人気となり、戦前の宝塚歌劇黄金時代を支えた。戦後は映画やテレビドラマの母親役などで活躍。

117 『南京爆撃隊』舞台写真 〔昭和12(1937)年〕【長谷川清関係文書73】葦原邦子肖像

昭和12(1937)年11月の東京宝塚劇場公演『軍国レビュウ 南京爆撃隊』の舞台写真。表面には葦原の署名、裏面には「皆様の武運長久を祈ります。私達も大いに頑張つて居ります。第三艦隊長谷川長官殿」と書かれている。
当時、宝塚少女歌劇団では、海軍軍事普及部の後援による公演が行われており、この作品もその一つ。同年8月、長谷川清(のちに海軍大将、台湾総督を務めた)が第3艦隊司令長官として任務にあたった渡洋爆撃をモデルとしている。あらすじによると、葦原が演じた「勝木少佐」は爆撃を成功させた人物である。

葦原邦子署名葦原邦子肖像

花房義質(はなぶさ よしもと) 1842-1917

明治期の外交官。緒方洪庵が開いた適塾に学んだのち、欧米に外遊し明治2(1869)年外務官御用係となる。公使として清・朝鮮・ロシアとの外交に尽力した。のち農商務次官、宮内次官、枢密顧問官、日本赤十字社社長などを歴任した。

118 花房義質名刺判写真〔明治7(1874)年〕【榎本武揚関係文書18-1】花房義質肖像

榎本武揚宛の名刺判写真(カルト・ド・ヴィジット)。裏面に署名とともに「紀元二千五百三十五年二月/明治七年」「奉榎本先生閣下」と記載されている。ペテルブルグにて撮影。「Ch Bergamasco」とあり、イタリア出身の写真師チャールズ・ベルガマスコの写真館で撮影したものと思われる。榎本は明治7(1874)年1月に特命全権公使としてロシアに着任、翌年樺太千島交換条約を締結している。

花房義質署名花房義質肖像

豆知識

カルト・ド・ヴィジット(名刺判写真)

19世紀半ばに欧米で、肖像写真を交換しあうことが大流行しました。「カルト・ド・ヴィジット(Carte de Visite)」という、厚紙に写真を貼りつけたカード型のものが発明され、人々はこぞって自らの肖像写真を写真館で撮影し、それを交換しあったのです。上流階級の写真は市販もされました。中流階級にとっては、上流階級の写真と自分の友人たちとの写真をコレクションすることで、上流階級の仲間入りを果たしたような気持ちになれたのでしょう。交換する際には、サインを入れたり、思い出の品を添えることもあったようです。
憲政資料室のコレクションの中にも、カルト・ド・ヴィジット本体や、友人から贈られたものを集めたアルバムが散見されます。洋行時に撮影したものだけでなく、横浜や東京の写真館で撮影されたものもあり、欧米の風習が日本にも伝わっていたことがわかります。

近衛篤麿(このえ あつまろ) 1863-1904

明治期の政治家。近衛文麿・秀麿の父。ドイツ留学後、貴族院議員として活躍。学習院長、貴族院議長、枢密顧問官を歴任した。東亜同文会・対露同志会を結成し、アジア主義、対露強硬外交を主張したことでも知られる。

119 近衛篤麿名刺判写真〔明治19(1886)年〕【品川弥二郎関係文書1758】「近衛篤麿名刺判写真」の拡大画像

品川弥二郎宛の名刺判写真(カルト・ド・ヴィジット)。留学中である明治19(1886)年に、ボンで撮影されたもの。表面にはローマ字の署名、裏面には漢字の署名の両脇に「贈品川弥一兄」「明治十九年八月十九日 於独逸国ボン府」と記されている。品川は当時ドイツ駐剳全権公使。写真館の名前は「Fritz Meyche」とあるが、詳細は不明。

「近衛篤麿名刺判写真」の裏面「近衛篤麿名刺判写真」の表面

勝海舟

→掲載資料48を参照

120 勝海舟名刺判写真〔明治3(1870)年〕【榎本武揚関係文書17-12】勝海舟肖像

榎本武揚宛の名刺判写真(カルト・ド・ヴィジット)。裏面に「奉贈/榎本武揚兄/勝安芳」とある。安芳やすよしは維新後の改称。台紙に「東京浅草横浜馬車道内田」と印刷されており、撮影したのは内田九一くいちの写真館と推察される。内田は明治天皇の洋装軍服姿の写真(のちの御真影)を撮影したことで有名である。

勝海舟署名勝海舟肖像

黒田清隆

→掲載資料53を参照

121 黒田清隆名刺判写真〔明治7(1874)年〕【榎本武揚関係文書17-15】黒田清隆肖像

榎本武揚宛の名刺判写真(カルト・ド・ヴィジット)。裏面に「恭呈榎本武揚君/黒田清隆再拝/明治七年七月」とある。「東京呉服町写真師東谷」と印刷されており、撮影したのは清水東谷の写真館だとわかる。清水は狩野派の絵師で、再来日時のシーボルトの植物写生を手伝い、その際に贈られた写真機がきっかけとなって明治5(1872)年に写真館を開業した。

黒田清隆署名黒田清隆肖像