コラム

2. ファッション

フランスと言えば、ファッションを連想する方も多いであろう。特にパリは、有名服飾ブランドが立ち並び、「パリ・コレクション」が開催されて、流行を発信するファッションの都として知られている。フランスとファッションが結びついたのは、ルイ14世(1638-1715)の時代である。絶対王政の下で華麗な宮廷文化が花開き、フランス宮廷の華麗なモードがヨーロッパ中に広がることとなった。また、織物やレースといった繊維工業の発展により、ヨーロッパ有数の服飾材料生産国となったことも要因の1つである。以来、今日までフランスのファッションは人々の憧れであり続けている。
フランスのファッションは、洋装を取り入れた当初から日本に影響を与えている。近代国家を目指した政府は、軍事、警察、郵便など欧米の制度を積極的に取り入れ、その制服として洋服を採用した。中でも礼服や陸軍軍服には、フランスのデザインが取り入れられている。

大礼服の制定

大礼服の仕様図

「大礼服及通常礼服ヲ定メ衣冠ヲ祭服ト為シ直垂狩衣上下等ヲ廃ス」(『法令全書』内閣官報局,明5【CZ-4-1】)『法令全書』のデジタル化資料

明治5年11月12日に制定された大礼服

大礼服とは、明治以降、主に宮中儀式に着用された礼服を言う。
古来の衣冠束帯等の装束類が廃止され、新たに洋風の大礼服が定められることとなり、明治5(1872)年1月1日に左院議長・後藤象二郎(1838-1897)から依頼を受けた宮島誠一郎(1838-1911)が中心となって、洋式大礼服制制定に向けて調査が進められた。宮島の報告書「大礼服新製取調書」には、「初代那波連翁創造ノ大礼服ハ欧州諸国ノ規範ト相成候へハ、此度新製ノ大礼服ハ仏国ニ形取取調有之度」とあり、フランスの服制を参考としたことがわかる。お雇い外国人アルベール・デュ・ブスケ(1837-1882)の助言を受けながら調査を行い、2月23日には完成した服制雛形が後藤に提出された。
同年3月24日、岩倉使節団の大久保利通(1830-1878)と伊藤博文(1841-1909)が外遊中に一時帰国した。5月17日に再渡米するにあたり、宮島は服制雛形一式の写しを大久保に渡した。その後、7月14日に英国に到着した使節一行は、宮島の作成した服制雛形をもとに、大礼服調製のための調査を行った。その結果、フランスの服制に倣い、宮島の雛形に少し改変を行ったことを政府に報告している。
「政府ヨリ御下ケノ洋式繪圖面ヲ以テ、西洋一般之禮服ト照シ合候所、其裁縫ニ聊カ異同有之候間、佛国之服制ニ倣ヒ些シク改正イタシ」(大使公信 第15号 明治5年8月22日ロンドンより発信)
11月5日、岩倉使節団はできあがった大礼服を着用して、ヴィクトリア女王(1819-1901)との謁見に臨んだ。日本国内では、その7日後の12日に太政官令「大礼服及通常礼服ヲ定メ衣冠ヲ祭服ト為シ直垂狩衣上下等ヲ廃ス」が布告された。しかし、これには岩倉使節団が「佛国之服制ニ倣ヒ些シク改正」したことが反映されておらず、使節団の大礼服と国内で制定した大礼服に差異ができてしまい、帰国後に問題となった。西洋化を急いだ時代を象徴するエピソードである。

女性の洋装の始まり

女性の洋装は、明治10年代半ばから20年代初めにかけての欧化政策によって取り入れられるようになった。政府が欧化政策推進の場として明治16(1883)年に建設した鹿鳴館鹿鳴館の関連電子展示会を新しいウィンドウで開きます。では、舞踏会が開かれ、高官や華族の夫人たちは洋装をして集うようになった。
その後、明治19(1886)年6月23日に宮内大臣内達宮内大臣内達のデジタル化資料で宮中における婦人服制は以下の4段階に定められた。

  • 大禮服 Manteau-de-cour 新年式ニ用ユ
  • 中禮服 Robe décolleté 夜會晩餐等ニ用ユ
  • 小禮服 Robe mi-décolletée 同上
  • 通常禮服 Robe montante 裾長キ仕立ニテ宮中晝ノ御陪食等ニ用ユ

いずれの礼服にもフランス語が併記されており、フランスに倣った服制としたことがわかる。大礼服(マント・ド・クール)の「クールcour」は宮廷の意味で、ルイ王朝時代に着用された宮廷服。袖無し、または短い袖つきのドレスにトレーン(引き裾)をつけるもの。トレーンの長さとお裾奉持の人数は、身分の高さによって定められた。中礼服(ローブ・デコルテ)と小礼服(ローブ・ミーデコルテ)は、「襟を大きくあけた服」の意味である。大礼服と同じ形態であるが、トレーンは付けない。通常礼服(ローブ・モンタント)は立て襟で長袖、トレーンを引くものであった。
また、翌20(1887)年1月には皇后より洋服を奨励する思召書が出され、「勉めて我が國産を用ひんの一言なり。もし、能く國産を用ひ得ば、傍ら製造の改良をも誘ひ、美術の進歩をも導き、兼ねて商工にも、益を與ふることおおかるべく」と国産の洋服の着用を呼びかけている。

洋裁を描いた錦絵

貴女裁縫之図【寄別2-9-2-1貴女裁縫之図のデジタル化資料
洋装した婦人たちが洋服を作る様子。ミシンも見える。

女性のフランス・ファッションへの憧れ

ファッション写真

「佛蘭西型流行婦人洋服」(『三越』19巻2号,1929.2【雑23-23イ「佛蘭西型流行婦人洋服」の拡大画像を開きます。

デザイナー兼モデルを務めているベルト・モルバン・レモン(1898-?)は三越百貨店が招いたフランス人。

明治21(1888)年6月22日の朝日新聞(大阪)の記事には、「数年前日本の貴婦令嬢は服装を始め百時競て巴黎の風を模し唯時流に晩れんことを是恐れ終に身体をも挙げて巴黎風に化造せんことを願んとするものゝ如く幾んど狂するが如き有様なりし」とあり、日本でパリへの熱狂的な憧れがあったことがうかがえる。
川上音二郎(1864-1911)・貞奴(1871-1946)夫妻は、明治33(1900)年にパリ万博での公演、同40(1907)年に劇場視察と女優養成学校研究のために渡仏している。帰国後、2人はパリの流行を雑誌などで紹介した。貞奴は、「巴里の贅澤競べ」(『流行』1908-07【雑50-3イ】)で、パリで流行の宝石や美容とともに、仕立屋で見たマヌカン(ファッション・モデル)について「見本は活きた美人」、「見本の美人は雇人」と驚きをもって述べている。ちなみにモデルは、オートクチュールの創始者シャルル・ウォルト(1825-1895)が19世紀半ば頃に妻マリー(1825-?)に自分の作品を着せたのが始まりとされる。
明治末になると、流行を紹介する雑誌が創刊されるようになる。都新聞付録の『都の華』【Z8-1072】は、衣食住の流行を伝える雑誌として創刊。現在も続く『婦人画報』【Z6-31】は、海外や国内上流階級の衣服の流行を伝えた。また、百貨店が広告も兼ねて発行した『流行』(白木屋)や『みつこしタイムス』【雑23-23】(三越百貨店)なども、流行を伝える役割を担った。

フランス・ファッション誌の模倣

『婦人グラフ』4巻8号表紙

『婦人グラフ』【雑51-38】4巻8号表紙 『婦人グラフ』の拡大画像を開きます。

フランスでは、ファッションを伝える手段として、等身大の人形に服を着せて見本としていたこともある。18世紀後半になると、ファッション・プレート(服飾版画)がファッション伝達の役割を担うこととなり、ファッション・プレート集も刊行された。その後、19世紀になり、印刷技術の発展から雑誌が誕生すると、ファッション誌(ファッション・プレートを含む女性向け定期刊行物)も続々と創刊された。日本でも大正時代に入ると、フランスの雑誌を模倣したファッション雑誌が創刊されるようになる。プラトン社が発行した『女性』(1922-1928)【雑51-35】は、フランスの雑誌『Gazette du bon ton』のイラストを模した絵を表紙や口絵に掲載している。『婦人グラフ』(1924-1928)【雑51-38】は、創刊の辞に海外ファッション誌を目標とすることを掲げ、2号目以降はフランスの雑誌『Art Gout Beauté』の判型や表紙デザインをそのまま取り入れた。『装苑』(現『So-en』、1946- )【Z6-530】のタイトルは、フランス誌『Jardin des Modes』を和訳したものであった。また、戦後はフランス誌の日本語版も多く発行されている。『Elle』日本語版として『an・an Elle Japon』(『Elle Japon』【Z23-455】創刊により昭和57(1982)年以降『an・an』、1970- )【Z24-206】が、『Marie claire』日本語版として『Marie claire Japon』(1982- )【Z23-445】が創刊されるなど、フランスのファッション誌が日本に与えた影響は大きい。

ファッションの日仏交流

服飾デザインでは、大正末から昭和の初めにフランスなど海外で学んだ島村ふさの(1905-1977)、田中千代(1906-1999)、杉野芳子(1892-1978)らが、帰国後ファッションデザイナーとして活躍する傍ら、教育にも力を入れて洋裁学校を設立した。また、美容では、フランスで美容術を学んだマリールイズ(相原美禰、1875-1957)が、帰国後に美容院「巴里院」を開業し、皇族など多くの顧客に美容を伝え、美容学校を設立して美容法の普及に努めた。
1970年代になると、昭和45(1970)年の高田賢三(1939- )、同48(1973)年の三宅一生(1938- )、同50(1975)年の山本寛斎(プレタポルテ、1944- )、同52(1977)年の森英恵(1926- )、同57(1982)年の川久保玲(1942- )と山本耀司(1943- )など、日本人デザイナーが相次いで「パリ・コレクション」デビューを果たした。また、「マヌカン」(mannequin)、「オートクチュール」(haute couture)、「プレタポルテ」(prêt à porter)など、フランス語がそのまま日本語となったファッション用語も多い。バブル期には、フランスの一流ブランドが日本で人気となり、シャネルが平成6(1994)年に銀座に直営店を出し、同9(1997)年頃には、服から小物までシャネル製品で全身をかためた人を呼ぶ「シャネラー」が流行語となった。ルイ・ヴィトン(同10(1998)年)、エルメス(同13(2001)年)なども日本に直営店を出している。一方、最近では原宿から生まれたファッション「ゴシック&ロリータ」(略して「ゴスロリ」)や日本アニメのキャラクターの扮装をする「コスチューム・プレイ」(略して「コスプレ」)がフランスの若者の間で流行っているという。日仏両国のファッションの交流は、今もなお続いている。