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第4章 立憲政治の危機

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a. 政党内閣の終焉

4-4 天皇機関説問題

自宅で記者団に弁明の談話原稿を読み上げる美濃部達吉 『新聞連合写真ニュース』昭和10年9月号所収
自宅で記者団に弁明の談話原稿を読み上げる美濃部達吉 『新聞連合写真ニュース』昭和10年9月号所収

天皇機関説(国家法人説)は、明治憲法体制を法的に説明する理論として広く認知されていた。昭和10(1935)年2月18日、貴族院本会議で菊池武夫が、憲法学者美濃部達吉らの著作を挙げて天皇機関説を排撃した。これに対して貴族院議員でもあった美濃部が、2月25日に貴族院本会議で「一身上の弁明」を行ったことを契機に、国家主義団体などが天皇機関説排撃のキャンペーンを展開した。軍部や在郷軍人会、さらに倒閣を目論む政友会もこの動きに加わり、排撃運動は激化した。

陸軍教育総監の真崎甚三郎は、林銑十郎陸相が、美濃部説は承認できず、学説としても消失を希望するが、その処置については他の関係と共に慎重に考究する、と述べたことを3月12日の備忘録に記している。この問題が単なる学説論争を超えて、様々な思惑の絡む政治問題に発展していたことが窺われる。

排撃運動には、一木喜徳郎枢密院議長の辞職要求などにより、宮中グループをはじめとする現状維持勢力を打倒する目論見もあった。政府は、4月に美濃部の著書『憲法撮要』などの発売頒布禁止処分・改版修正処分を決定し、岡田啓介首相が天皇機関説を否定する「国体明徴声明」を8月と10月の2度にわたって出すことで事態を沈静化させたが、これにより明治憲法下における立憲主義の統治理念が公然と否定されることとなった。

備忘録 七

『備忘録 七』
  • 昭和10年3月12日
  • 真崎甚三郎関係文書 2743
  • 国立国会図書館
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