写真の中の明治・大正 国立国会図書館所蔵写真帳から

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コラム<東京>

1 議事堂

議事堂の写真
帝国議会議事堂 『東京名所写真帖』より

国会議事堂と言えば、中央に塔屋のある左右対称のどっしりとした御影石の建物を、多くの人はすぐに思い浮かべることだろう。昭和11年(1936)に完成した現在の議事堂は、おそらく今日の日本で最もよく知られた建物の一つである。だが、我が国で国会が開設されたのは明治23年(1890)のこと。それから現在の議事堂が完成するまでの46年間は、仮議事堂が国会の舞台だった。仮議事堂の外観は、現在の建物とはかなり趣が異なっていた。

仮議事堂の変遷

明治14年(1881)10月、国会開設の勅諭が発せられると、政府は23年(1890)の国会開設に向けて議事堂建設などの検討に取りかかった。議事堂および中央官庁街の大規模な建設計画が、当初考えられていた。しかし、財政事情と時間的な制約から結局それは断念され、仮議事堂が建設されることになったのである。

仮議事堂は23年(1890)11月24日、第1回帝国議会召集の前日にようやく竣工した。場所は東京市麹町区内幸町2丁目(現東京都千代田区霞ヶ関1丁目、経済産業省)、木造洋風2階建、附属建物を含む建物の面積は8,469㎡、建築費233,868円79銭5厘、装飾費その他21,107円12銭1厘であった。この最初の仮議事堂の写真は、多くは残っていない。24年(1891)1月20日夜、竣工から2か月足らずで火災のため焼失してしまったからである。火災の原因は漏電であろうと言われている。

仮議事堂は直ちに焼け跡に再建されることになり、突貫工事で24年(1891)10月に完成した。外観は焼失した仮議事堂と大差のない木造洋風2階建、建物面積(附属建物を含む)は16,016㎡、建築費229,424円10銭2厘、装飾費その他25,129円5銭であった。

この第2次仮議事堂も、大正14年(1925)9月に火災で焼失した。今度の再建工事はさらに短期間で行われ、同年12月に第3次仮議事堂を完成させている。木造洋風2階建、焼失した仮議事堂とほぼ同じ外観である。建物面積(附属建物を含む)は20,839㎡、建築費1,599,974円、装飾費その他482,969円32銭であった。この第3次仮議事堂が、昭和11年(1936)に現在の議事堂が完成するまで使われたのである。

なお、今回展示したものは、すべて第2次仮議事堂の写真である。

議場内の風景

議事堂内では品位と秩序が重んじられていた。例えば、「衆議院規則」(明治23年(1890)12月1日制定)は 「議場内の秩序」に関して、羽織袴・フロックコート・モーニングコートの着用義務付け、外套・傘・杖の携帯ならびに帽子の着用禁止、喫煙の禁止、参考資料以外の新聞・書籍の閲読禁止、他人の演説・朗読の妨害禁止などの規定を設けている。

「貴族院規則」の規定も「衆議院規則」と同内容である。なお、現行の「衆議院規則」「参議院規則」の規定も、服装については時代に合わせて修正されたものの、そのほかはおおむねこれと同じである。

とはいうものの、議場内が常に品位と秩序で満たされていたわけではなかったようである。議員の議場での振舞いは、今も昔も世間の注目の的であり、それはしばしば議事内容への関心を上回る。議員の議場でのエピソードやハプニングなどを面白おかしく書き綴った読み物も、早い時期から出版されていた。 国会の傍聴は開設当初から可能であり、外交官、新聞記者などのほか、一般公衆も議員の紹介があれば傍聴できた。

23年(1890)12月に出版された 『国会傍聴 議場の奇談』と題する冊子がある。秩序あり、混乱あり、笑いあり、怒りありの当時の議場内の様子が活写されているこの読み物の中から、エピソードをいくつか紹介してみよう(句読点は筆者)。

「怒り上戸の随一人は誰ぞ 二十二番議員、植木枝盛氏なり。氏は一言一語既に怒調を帯ぶるが上に、何かに附けて直(すぐ)に腹を立て、憤然として怒鳴り、激然として拳を打振り、以て他を嚇(をど)し去らんとするより、(中略)のべつに遣(や)らかしては怒りの効能追々(おいおい)薄くも為(な)らずや。氏が嚇然大怒せねばならぬ事、今後続々出で来るべし。今少しく其鋭気を蓄へて可(か)なり」

「貴族院の元気者は鳥尾子爵なり。仝(どう)氏(し)は渡議員の動議に付き、意見を述べ終らんとするに臨み、問題外に逸出(いっしゅつ)せんかも知らざれども、少々述べ置く可(べ)き事あり、と云ふに至り、伊藤議長之(これ)を制し、問題外の事の発言は出来ぬと述(のぶ)るや、子爵は顧み、議長を一睨(いちげい)して曰く、(中略) 発言の問題外に逸出したる時に至りて御差止(おさしとめ)あるべし、今は其時に非ず、とて其発言を続けたり」

「渡邊驥氏演壇に顕(あらは)る。エヘンの一声、満場為(た)めに静粛。氏の弁舌、被告人に向(むかっ)て演説するが如し」

「尾崎三郎氏の演説は中々(なかなか)上出来、三浦安氏の弁舌は流暢なり。共に老練々々」

「議員は種類も多し。説教議員とは、時に早々、時に遅々、口調恰(あたか)も坊さんの説教然たるを以てなり。尾崎氏の動議に賛する高木正年氏」

「島田氏の動議に付(つき)、議長は採決を三段に分(わか)ち、第一反対説、第二修正説、第三原案と宣告したるに、少しく考へて、此(この)宣告は取消したる旨を告げたるに、議場は囂々(ごうごう)喧々(けんけん)、質問発論四方八方より起り、議長早く宣告を賜(たま)へと云ふ者あり。此(この)時議長、姑(しばら)く腕組をして居たるが、ぐつと落付(おちつき)たる風をして曰く、『肝要なる場合であるから、議長は精神の極(きま)るまで宣告を見合すのである』と弁解したるは近頃の上出来なり、とは或(ある)議員の評」

開設されたばかりの国会の議場内の活気に満ちた光景が、次々と目の前に現われてくるようである。

国会議事堂の変遷や写真については、参議院ホームページにも掲載されているので、そちらもご覧ください。

引用・参考文献