近代日本人の肖像

幕末・明治初期の商社誕生に関わった人々

「商社」というと、現在では国を越えた多種多様な物品の取引や大規模なインフラ等の開発を手掛ける総合商社をイメージする方が多いかも知れません。誕生当初の商社は、外国商館との間で特定の商品を扱う貿易を行う会社でした。ここでは、幕末から明治初期の商社誕生に関わった人々をご紹介します。

○亀山社中と兵庫商社

慶応元(1865)年、坂本龍馬は薩摩藩や長崎の豪商の支援を受けて、長崎の亀山に「亀山社中」を設立しました。亀山社中は日本初の民間貿易会社で、私設の海軍の役割も有していたと言われています。亀山社中では、海運業・貿易業を始め、軍事業務、人材を手配する業務も行われ、坂本が組織の会長を務めました。亀山社中の業績の一つに、長州藩のために薩摩藩名義で大量の小銃や蒸気船の購入をしたことが挙げられます。これが慶応2年の薩長同盟につながったといわれています。亀山社中は慶応3年に土佐藩付属の「海援隊」に改名しますが、坂本の暗殺後に内部で分裂し、明治元(1868)年に解散しました。

慶応3(1867)年に幕府の新規事業として商社設立を提案したのが、勘定奉行であった小栗忠順です。小栗は提案書で初めて商社という言葉を使いました。それは、複数の人から資金を集めて結成された経営体という意味でした。
幕府の主導により、大坂や兵庫の商人の出資による「兵庫商社」が設立されました。構成員には、三井のほか、大坂の有力商人の鴻池や加島屋、兵庫からは酒造業者が名を連ねました。兵庫商社は幕府の崩壊とともに解散することになり、多くの活動を残すことはできませんでした。

○三井物産の誕生

幕末の開港場から始まった貿易は、外国人居留地の商館を通じた取引が中心でした。明治維新後もこの形式が続けられましたが、商館を通さず外国の貿易会社との直接取引を行う機運が高まります。
この中で誕生したのが三井物産です。

三井物産は明治9(1876)年7月に、三井の「三井国産方」と、井上馨が手掛けた「先収会社」が合併して誕生しました。三井国産方は、京浜間の運送や内国商売を行っていました。先収会社は、井上馨が益田孝や藤田伝三郎と組んで米や生糸・茶等を輸出し、銃器・肥料等を外国商館経由で輸入する会社でした。両社の合併は、運送と貿易の会社が一体化することで双方の不足部分を補完した商社となり、総合商社に発展する道筋が準備されたといわれています。

設立当初の三井物産は、社長に益田孝、副社長に木村正幹、幹事に三野村利左衛門、事務員に馬越恭平、上田安三郎等がいました。
社長に就任した益田は、人材登用にも熱心でした。商法講習所(後の一橋大学)を卒業した渡辺専次郎、小室三吉、岩下清周等を採用し、丁稚制度ではない教育を受けた若い人材を招き入れました。また事務も洋式化し、当時珍しかった洋式簿記法を採用しました。

さて、誕生した三井物産の最初の得意先は明治政府でした。民間の経済活動があまり活発でなかった当時は、大蔵省委託の内地米の買い付けと輸出、三池炭鉱の石炭の販路拡張が主な仕事でした。内地米の輸出は、外国の帆船に社員を乗せて遠方はイギリスにまで及びました。石炭の輸出では、上海に駐在員を置いて市場での販売に当たりました。明治11(1878)年にパリ万国博覧会が開催されると出品を政府から委託され、パリに支店を開設しました。
三井物産はロンドン、パリ、ニューヨークに支店を置き、取引を着々と広めていきました。

明治26(1893)年に合名会社へ改組し、引き続き社長となった益田孝は、会社の目標は広く外国貿易の拡大と信用重視であると説きました。ビジネスパーソンたちの努力と内外からの信用が、総合商社への基礎を固めていくことになりました。

○伊藤忠商事

伊藤本店

『実業界』10(2)(新年増刊) 1915.1【雑45-24】(国立国会図書館内/図書館・個人送信限定)より

安政5(1858)年、伊藤忠兵衛(初代)は琵琶湖東にある現在の豊郷町で麻布(まふ)を出張販売する商売を始めました。行商による販売は、主に京都・大坂でしたが、泉州堺から紀州路へも行っていたそうです。
伊藤が行商から店舗商業に切り替え、大阪本町に「紅忠(べんちゅう)」という店を出したのは明治5(1872)年のことでした。「紅忠」は店の運営に会議制度を採用、利益三分主義という店員配当方式を採用するなど新しい経営方針を打ち出しました。17年には「紅忠」を「伊藤本店」と改称し、18年に神戸に事務所を置いて直接貿易に乗り出しました。26年大阪に伊藤糸店を開業し、当時としては画期的な経営方法の成文化等を行い、従業員との信頼関係を築き上げながら合理的・多角的な経営を行っていきます。後の伊藤忠商事における事業の根幹となります。

伊藤は糸店を中心とした経営の他にも海外貿易と並んで金融機関の経営に尽力しました。明治34(1901)年に近江銀行の頭取を引き受けています。多面的な企業活動を行った伊藤忠ですが、明治時代は「大阪の伊藤忠」といわれ、大正・昭和戦前期には「関西の伊藤忠」といわれるようになりました。

三大商社と呼ばれるうち、明治初期に商社としての事業を開始した三井物産と伊藤忠商事を紹介しました。当初は海運業や鉱山業に重点を置いていた三菱が、総合商社の三菱商事として活動するのは大正時代からとなります。

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