国立国会図書館憲政資料室 日記の世界

小林次郎

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小林次郎の肖像写真

小林次郎

こばやしじろう
1891年~1967年

小林次郎の日記について

この電子展示会で見られる日記の概要

  • 「日誌」は、貴族院書記官長であった1945年1年分1冊の日記。

小林次郎の日記より

昭和20(1945)年2月27日

戦局悪化で意見いろいろ  第二次世界大戦
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児玉伯より電話。阿部、陸軍では岡田が大臣になりたがってあせっていると云ふ。重臣が陛下に拝謁の際平和のことを申上げたる処、「総て戦捷[戦勝]後だ」と仰せられし由。大島子、今のまゝではだめ、一般民を中部山脈地方へ追ひやり、手足まどいをなくして、本土作戦をすることを宣伝するつもりである、先づ明日研究会の常務委員会で話す、貴族院は衆議院や政府を鞭撻[べんたつ]して、立て直しをやって貰はねばだめだ、それが貴族院の責務だ。
昭和20(1945)年3月14日

重臣3名と首相の面会内容
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加瀬、本日辺上京、閑あらば面会することになしおけり。先日は重臣三人(若槻氏欠席)首相と面会、あまりつきすすみし話出ず、ふらふらやって行くつもりらしい。Aはこの内閣を投げた。Bが少し未練がある。重光は徳川議長に御目にかかりたし、とのこと。
昭和20(1945)年8月11日

ポツダム宣言への対応  第二次世界大戦
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五時加瀬君来訪。十日午前六時発電、スウェーデンよりロシア、英[イギリス]、瑞西[スイス]より支那[中国]、米[アメリカ]、何れも到達せり。米は午后六時四十五分頃受取りたりと云ふ。重慶は爆竹、琉球基地は高射砲を発ち、サイレンをならし、B29を出さんとするも出るものなし。米、英も戦捷[戦勝]気分にひたりおれり。英は承知すべし。米も下にも反対のものもあるも、指導者は受諾すべし。重慶は蒋は反対せざるべきも一部に反対者あり。ロシアは不明。ロシアが承諾せざれば、一応は戦を継続するの外なし。陛下が戦を止めろと仰せられしは七月九日なり。
昭和20(1945)年8月15日

玉音放送を聞いて  第二次世界大戦
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小原、次田、矢吹、古島氏と正午の陛下の御放送を拝す。恐懼[きょうく]に堪えず。戦争責任者は自責に堪えざるべし。
昭和20(1945)年10月22日

戦争責任問題についての対話の内容 
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関屋氏を訪ふ。十六日及昨夜フェラースに面会す。天皇の平和愛好者なることを説明す。フェは側近がもっとよくアドバイスをすべきだったと云ふ。又昨夜はフェは東条が変なことを云はぬやうに注意すべきを可とすと云ふ。これに対しては、はっきり返事をしなかった。

小林次郎の日記一覧 (国立国会図書館デジタルコレクション収録分のみ)

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