国立国会図書館憲政資料室 日記の世界

芦田均

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芦田均の肖像写真

芦田均

あしだひとし
1887年~1959年

芦田均の日記について

この電子展示会で見られる日記の概要

  • 1946年、1947年の2冊の手帳。
  • 総理大臣になる前の幣原内閣厚生大臣時代、片山内閣副総理兼外務大臣時代のもの。

芦田均の日記より

昭和21(1946)年4月11日

当選確実  選挙
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午后から開票の結果がラヂオで放送され、新聞の張出しに人が集まってゐた。党本部に行ったが余り代議士は集まってゐない。夕方にラヂオで私の当選は確実だと放送した。夕食後鳩山一郎氏往訪。
昭和21(1946)年4月13日

総選挙の結果をうけて  選挙
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選挙の結果自由党141、進歩党92、社会党91、無所属78と判明した。朝吉田外相を往訪した。俺は幣原に殉ずると談り、新内閣にはよき外相と蔵相とを捜すことだと云った。
昭和21(1946)年5月4日

鳩山追放  事件
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臥てゐると十時半頃安達君から鳩山氏追放の発表をしらせて来た。急いで東京へ出る準備をした。柳原君スミ子と共に午后一時半官邸に行く。来客に接し鳩山邸へ。ついで本部の代議士会に行く。
昭和21(1946)年7月15日

長時間の委員会に閉口 帝国議会日本国憲法
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暑さのpeakらしい。初めて開襟のシャツで登院した。十時から四時迄の委員会でうんざりした。
昭和21(1946)年7月16日

手際よく行った教授への挨拶 日本国憲法
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連日の炎暑で誰も閉口してゐる。十時から憲法委員会、朝十時半頃North Western University のProf. Colgrobeが委員会へ顔を出したので、一寸[ちょっと]休けいにして短かい挨拶をして拍手を送った。案外に手際よくやった。午后二時半再開して五時近く迄に二十一条迄の質問を終った。夜食に金田中[かねたなか]へ、憲法顧問連を一堂に。
昭和21(1946)年7月17日

憲法委員会  日本国憲法
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引つゞいて暑い。例により午前十時から午后五時近くまで憲法委員会、しかも愚問百出でうんざりする。
昭和21(1946)年8月15日

日本国憲法最後の条文完成  日本国憲法
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今日いよいよ最後の条文が出来上ったのである。一種の感慨に堪へない。
昭和21(1946)年8月24日

日本国憲法、衆議院通過  日本国憲法
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憲法審議が終る頃夕立だった。新橋迄バス、それから明るい気持で家へ帰った。
昭和21(1946)年11月3日

憲法公布式  日本国憲法
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今日は実に印象の深い日だった。議会で陛下臨御の下に公布の式、昼食は議員食堂で祝杯、午后二時宮城前の広場で東京都の都民祝賀大会、陛下御親臨、そして集まる市民の熱狂!素晴らしい日だった。
昭和21(1946)年12月10日

憲法普及会  日本国憲法
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午前十時首相官邸にて憲法普及会の第一回総会、会長として簡単な挨拶をした。吉田総理も出席、正午に散会、ついで内閣記者団に発表した。
昭和21(1946)年12月28日

最後の帝国議会  帝国議会
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九十二帝国議会の開院式で目についたことは出席義[議]員が定員の三分の一位しかなかったことだ。
昭和22(1947)年3月3日

霞関会での話 
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交詢社で政界ジープに口述した。自由党の立場といふことを。それから議会に行った。財政に関する質問の日である。午后二時外務省の霞が関会で「憲法改正案のできる迄」といふ話をした。
昭和22(1947)年3月22日

私も新党へ乗り出さねばならぬ 
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朝の新聞には何も出なかったが政治新聞が新党の記事を長々と書いて口火を切った。新聞記者から質問で追廻された。本会議が夕方迄つゞいた。六時から新日本の座談会、その席で進歩党がいよいよstartしたことを楢橋君から聞いて、私も新党へ乗出さねばならぬと決心した。
昭和22(1947)年5月1日

パージ容疑 
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鉄工ビル‐郡是[グンゼ]‐憲法普及会、党本部へは次第に代議士が集まり始めた。同時に私のパージ問題が乱れとぶ。竹田君入党のことに打合せ。夕方五時に党本部を出て帰宅した。今日も又パーヂの事件についての文書を作って郡是で複写させた。しかし万一パーヂにかゝっても差支ないといふ気持ちになって来た。
昭和22(1947)年5月3日

5月3日はAshida day!  日本国憲法
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雨が昨夜以来止まぬ。富[次男]を引具して十時前宮城前の広場に行って式を司会した。今日はAshida dayである。憲法普及会長は重大な意味があった。
昭和22(1947)年5月18日

民主党初代総裁 
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午后二時丸ビル九階で党大会が開かれ、私は民主党初代の総裁に選任された。
昭和22(1947)年9月16日

水害・石炭問題山積  国会
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カセリン台風が通りぬけて今朝は晴天になったが、関東以北は水害で大分やられた。困ったことだ。九時から閣義[閣議]で石炭問題が再び出た。昨夜の打合せ通りに取扱ふ。義会[議会]で民主党の役員会に出る。
昭和22(1947)年9月20日

米価問題  国会経済
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九時から閣義[閣議]で米価問題と追加予算を議した。米価は総理の裁定に一任することにした。予算は890億円を押つけられたが今一度交渉することゝした。
昭和22(1947)年10月1日

海外同胞の引揚
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午前十時衆義院[衆議院]の一室で同胞引揚委員の数名と懇談。事情を詳述した。参義院[参議院]の桜内氏と話す。外務省‐ロータリー‐午餐外務省、午後四時関屋氏来訪。ロシア幽閉中の話をした。
昭和23(1948)年2月7日

政局談  国会
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昨朝山口喜久一郎君を呼んで政局談をした。四党で政治休戦をして連立で行かうかとの話をしたのが今日は一斉に新聞に出てゐる。

芦田均の日記一覧 (国立国会図書館デジタルコレクション収録分のみ)

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