品川
東京都 港区・品川区
品川
品川沖では魚介類が豊富に獲れ、「江戸前」の呼び名もここから生まれた。将軍家に獲れたものを献上する「御菜肴八ヶ浦(おさいさかなはちがうら)」の一つとして、漁業が盛んに行われたが、黒船来航以後御台場が築かれると、軍艦等の往来により大規模な漁具が使用できなくなり、全国的に有名であった海苔採取業が一層盛んとなった。また遠浅の海で、昼過ぎには沖合まで干潟になることから、春や夏は早朝に舟で沖まで行き、干潮を待って蛎や蛤、平目や海藻を採る人々で賑わった。6月7日には、当時目黒川の南にあった荏原神社と川を挟んで北にあった品川明神社の両社の神輿が橋で行きあった後、また南北に分かれる品川天王祭が開催され、潮干狩りとともに江戸の年中行事の一つとなっていた。なお、品川駅は現在の港区。
錦絵・絵画等
江戸名所
品川
品川
江戸自慢三十六興 品川海苔
日本風景選集 2
日本風景選集 2
改正五十三驛
川瀬巴水版画集 2
清親畫帖 [1]
東京名所 [10]
写真
旅の家つと 第12 東京附近の巻
旅の家つと 第12 東京附近の巻
仁山智水帖
東京風景
日本写真帖
東海道 : 広重画五拾三次現状写真対照
その他の資料
- 品川汐干(挿絵) 『江戸名所図会 7巻』(1834)
品川宿
現在の京浜急行の北品川駅から青物横丁付近にあった東海道の宿場。中仙道の板橋、日光・奥州道中の千住、甲州道中の内藤新宿と並び、江戸から五街道に入った際の第一番目の宿場「四宿(ししゅく)」の一つ。次宿は川崎宿(元和9(1623)年以前は神奈川宿)であったため、東海道では唯一御府内の宿場となる。当初、目黒川をはさんで「北品川宿」、「南品川宿」の2宿で構成されていたが、享保7(1722)年その北に「徒歩新宿」が加わり、北側は八ツ山から南は大井村境(「妙国寺門前」と記載された史料もあり。)までの、東海道約2kmを中心とした宿場となった。
錦絵・絵画等
江戸名所之内 品川の駅海上
東海道五拾三次 品川・日之出
東海道 : 広重画五拾三次現状写真対照
東海道風景図会 2編 [1]
東海道五十三次 [1]
その他の資料
品川洲崎
南品川宿1丁目から目黒川に沿って北東の方角に、岬のように海に突出した洲。もとは兜島(かぶとじま)とよばれた人家のない寄洲(よりす)であったが、明暦元(1655)年課せられた伝馬役を拒否した人々が移住させられて南品川漁師町ができた後、天保5(1834)年には同町の地先を埋め立てた南品川新開場(利田(かがた)新地)ができた。先端には洲崎弁天堂があり、利田新地・漁師町と品川北本宿を鳥海橋(とりうみばし)が結んでいた。なお漁師町は、別名「品川浦」とも呼ばれ、「御菜肴八ヶ浦(おさいさかなはちがうら)」の1つとして、獲った魚を幕府の御膳所へ献上していた。また、江戸の特産物として有名な浅草海苔は、浅草で販売されたことからこの名になったが、ここから南の鮫洲にある海苔採取場で養殖されたものが原料となった。
錦絵・絵画等
名所江戸百景 品川すさき
その他の資料
- 洲崎弁天(挿絵) 『江戸名所図会 7巻』(1834)


