第2章 本議事堂の完成

議事堂の設計

本議事堂の設計デザインは、建築設計競技として一般公募されました。ただし、この建築設計競技の実施に至るまでには紆余曲折がありました。
まず、明治32(1899)年に内務省に設置された議院建築調査会が「議院建築ノ意匠ハ懸賞ヲ以テ内國人ニ於テ之ヲ募集ス」と決議します。しかし、懸賞募集を実施するための予算が計上されることのないまま、明治34(1901)年には調査会自体が廃止されてしまいました。
その後、明治39(1906)年に議事堂建築に関する建議が衆議院から政府に提出され、建設に向けた調査が再び始まると、ここから数年にわたって議事堂の建築設計競技の実施を求める動きが再興します。しかし、この時も建築設計競技の実施には至りませんでした。当時大蔵省臨時建築部長であった妻木頼黄と辰野金吾の対立が原因でした。
妻木は、「優れた案を得るには優れた建築家の応募が必要である。然も優れた建築家は審査員とならねばならないから懸賞に依るよりは寧ろ権威者が合議して立案するのが良い」(『帝国議会議事堂建築の概要』【722-17】)という考えを持っており、建築設計競技実施に反対しました。一方、辰野は建築設計競技実施に積極的でした。
辰野が会長を務める建築学会(現在の日本建築学会)が、明治43(1910)年に大蔵省内に置かれた議院建築準備委員会に対し、建築設計競技の実施を求める意見書を提出します。その意見書の起草にも携わった建築家の伊東忠太が同委員会の会議で競技実施を提案したものの、否決されました。そして、妻木主導の設計による建設のために準備や調査が進められますが、計画の推進役であった桂太郎内閣の退陣や財政上の理由などにより頓挫してしまいます。
事態が大きく動いたのは大正5(1916)年に妻木が亡くなってからのことです。大正7(1918)年から翌年にかけて建築設計競技が実施されました。実施したのはこのとき大蔵省に設置された臨時議院建築局です。一等に選ばれたのは宮内省技手の渡邊福三の案でした。

一等 透視圖 渡邊福三氏案
一等 透視圖 渡邊福三氏案

一等 正面及背面圖 渡邊福三氏案
一等 正面及背面圖 渡邊福三氏案

本館東正面圖
本館東正面圖

一等に選ばれた渡邊福三の案と、実際の本議事堂の正面図。これらの図を見てわかるように、実際の本議事堂は渡邊の案どおりの姿にはなりませんでした。中央の屋根が渡邊案ではドーム型となっていますが、実際に建設された屋根の形状はピラミッド型で、現在ではこのピラミッドこそが国会議事堂の象徴となっています。このピラミッドは、渡邊が大正9(1920)年に没した後に設計を担当した吉武東里(よしたけとうり)(競技実施時は宮内省内匠寮、のち大蔵省臨時議院建築局所属)による案とされています。そもそも、渡邊名義となっているこの一等入選作品自体が、実際には当時渡邊の部下であった吉武ら宮内省内匠寮の職員による案だったのではないかとも言われています。

コラム議事堂設計を批判した建築家

「帝冠(ていかん)様式」という建築様式をご存じでしょうか。現存する東京国立博物館本館や神奈川県庁舎などに見られる、鉄筋コンクリート造の洋風建築に和風の屋根を載せた独特なデザインの建物です。昭和初期に伊東忠太や佐野利器(さのとしかた)らの建築家によって進められた様式ですが、実はこれが「帝冠様式」と呼ばれるようになったことには本議事堂の建築設計競技がかかわっています。
旧香港上海銀行長崎支店などを設計した建築家・下田菊太郎は、自身の案を建築設計競技に応募しますが、一次審査で落選しました。そして、競技の入選作品が欧米風のデザインであることを「邪教様式の変体で怠慢的窮式の新型」「欧米の労働問題時代の表徴たる工場の様式で品位も無ければ雅致もなく全然日本魂を変装した虚偽様式」(ともに「国民精神の現れぬ新議院設計 近世式所か邪教様式の変体で怠慢的窮式 品位雅致共に欠けてると建築界の非難囂々」『東京朝日新聞』1921.2.24,朝刊,p.5)などと強烈に批判し、2度にわたり帝国議会に議院建築設計変更の請願書と自らの建築設計案を提出します。結局下田の案が採用されることはありませんでした。このとき下田が提唱した洋風ビルに和風建築の様式を組み合わせる「帝冠併合式」が後の「帝冠様式」の語源となったと言われています。

帝国議院建築設計を変更すべき理由
帝国議院建築設計を変更すべき理由

下田による帝国議会議事堂の設計案です。伊東忠太は発表当初この「帝冠併合式」を「様式構造共に不合理」と強く批判したものの、皮肉にも伊東自身の推し進めた建築様式が後に「帝冠様式」と呼ばれることになりました。

議事堂の建設

建築設計競技の開催と入選案の修正を経て、大正9(1920)年に本議事堂が着工します。この時は第二次仮議事堂が使われている時代でした。本議事堂が完成したのはなんと約17年後、昭和11(1936)年のことでした。工期がこれほどまでに長期化したのには、以下の理由が挙げられます。
建設中の大正12(1923)年に関東大震災が発生、幸い本議事堂の建物自体は無事だったものの、この震災が工事に大きな影響を与えました。地震後、火災により大蔵省が全焼し、ここにあった重要な設計図や模型なども失われてしまいました。さらに、建設に用いる鉄材を積んだ船が津波により沈没し、再発注を余儀なくされたことも、工期の遅れにつながりました。
建築を担ったのは大蔵省臨時議院建築局(のちに営繕管財局)で、技師長の矢橋賢吉の指導のもと、大蔵省臨時建築局技師に抜擢された吉武東里や、この後も数々の官庁建築を手がけることになる大熊喜邦(おおくまよしくに)らが参画しています。工事は、昭和2(1927)年の上棟式直後に矢橋が急逝してからは、大熊が営繕管財局工務部長として指導的存在になりました。

世界に誇る建築中の新議事堂
世界に誇る建築中の新議事堂

空から見た建築中の國會議事堂
空から見た建築中の國會議事堂

建設中の本議事堂の写真です。『大東京寫眞帖』では陸上から、『復興之帝都』では空から本議事堂の姿を写しています。外装工事においては中央のピラミッドが最後に手がけられたことがわかります。『大東京寫眞帖』では当時使われていた第三次仮議事堂を「バラツク」と呼ぶ一方、この本議事堂については「外観、内部ともに壮麗な設計で天晴れ帝国議事堂として世界に誇るべき建物である」と評価しています。

議事堂の完成

昭和11(1936)年11月、着工から約17年の時を経て、ついに本議事堂が完成しました。当初、すべての建材を国産で賄うことを目指していましたが、ドアノブと郵便差入口、そして中央広間のステンドグラスのみ外国製のものが使われました。外壁が山口県の黒髪島や広島県の倉橋島産の花崗岩で覆われた、地上3階(中央部分4階)地下1階、鉄骨鉄筋コンクリート構造の建物です。
なお、本議事堂が完成した昭和11年の2月には二・二六事件が発生しています。事件の際には完成を目前に控えた本議事堂も占拠されました。しかし、幸いにも本議事堂の建物が被害を受けることはありませんでした。
本議事堂は完成以来80年あまり、その間帝国議会が国会へ、貴族院が参議院へと姿を変えましたが、その役目を果たし続けています。

新議事堂全景
新議事堂全景

本資料は、立憲政友会系のメディアである自由通信社が、本議事堂完成翌年の昭和12(1937)年に発行しました。この中の記事で、本議事堂を「科学日本の誇り」「世界一の諸設備」「我国の国政を議する殿堂として相応はしいものとなしてある」と賞賛しています。

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ビジュアル議事堂



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