第1章 仮議事堂の変遷

ピラミッド型の屋根が特徴的な、東京・永田町にある国会議事堂。テレビで目にしない日はありません。でも、この議事堂が実は5代目の建物であるということを、皆さんはご存じでしたか?
本議事堂が帝国議会議事堂として完成したのは昭和11(1936)年のことです。正式な議事堂としてはこれが最初の建物ですが、それまでに4つの仮の建物(ここでは「仮議事堂」と呼びます。)が造られました。4つの仮議事堂のうち3つは東京に、あと1つはなんと広島にありました!ただ残念なことに、これらの仮議事堂は、今では1つも現存していません。
第1章では、これら4つの仮議事堂を紹介します。

幻の議事堂

実際に建てられた仮議事堂について紹介する前に、仮議事堂誕生前に計画された「幻の議事堂」についても触れておきたいと思います。「幻の議事堂」はお雇い外国人のドイツ人建築家ヘルマン・エンデ(Hermann Ende)とヴィルヘルム・ベックマン(Wilhelm Böckmann)が経営する建築事務所により設計されました。2人は外務大臣・井上馨によって主導された「官庁集中計画」の一環として、当時ヨーロッパで流行していたネオ・バロック様式の議事堂を提案(第1案)しました。明治20(1887)年、第1回帝国議会開会の3年前のことです。建設予定地は東京府麴町区永田町1丁目(現:東京都千代田区永田町1丁目)、本議事堂(地図の「新議事堂」)が実際に建てられたその場所でした。その後、エンデ・ベックマン事務所では和洋折衷の第2案も作成しています。しかし、官庁集中計画自体が予算不足や井上の失脚などによって実現せず、計画の中で実際に建設された庁舎は司法省(地図の「司法省」)と大審院(最上級裁判所、地図の「大審院」)のみとなってしまいました。(なお、昭和22(1947)年に発足した最高裁判所によって引き継がれた大審院の庁舎は1970年代に取り壊されたものの、司法省は霞が関の中央合同庁舎第6号館赤れんが棟として現在でも主に法務省が使用している現役の庁舎です。)こうして、エンデ・ベックマン事務所による議事堂は、幻に終わったのです。

帝國議事堂建築計劃圖
帝國議事堂建築計劃圖

エンデ・ベックマン事務所による帝国議会議事堂の第1案です。中央に正面玄関とドームを配し、両翼にパビリオンが張り出したデザインは、ネオ・バロック様式の特徴です。向かって右が貴族院、左が衆議院となる構想でした。

国会議事院第二案立面図
国会議事院第二案立面図

エンデ・ベックマン事務所による帝国議会議事堂の第2案です。ネオ・バロック様式の第1案とは打って変わって和洋折衷のデザインとなっています。このデザインは辰野金吾ら当時の日本人建築家から「和七洋三の奇図」と評されたそうです。

第一次仮議事堂

議事堂の本建築は中止となったものの、明治14(1881)年の国会開設の勅諭で明治23(1890)年を期して国会を開設することとされていたことから、仮議事堂が建築されることになりました。
初代の仮議事堂(ここでは東京に建てられた3つの仮議事堂をそれぞれ「第○次仮議事堂」と呼びます。)は、明治23年11月に完成しました。所在地は東京市麴町区内幸町2丁目(現:東京都千代田区霞が関1丁目、地図の「貴族院 衆議院」)、現在は経済産業省の敷地になっている場所です。設計を担当したのはドイツ人建築家アドルフ・シュテークミュラー(ステヒミュレル)(Adolph Stegmüller)と内務省臨時建築局技師の吉井茂則で、木造2階建ての建物でした。
完成直後の同年11月29日、大日本帝国憲法が施行されるとともに、第1回帝国議会が開会しました。「第一次仮議事堂」は正に「すべり込み」で完成したことになります。
しかし、完成からわずか2か月後の翌明治24(1891)年1月20日未明、突然の火災により第一次仮議事堂は全焼してしまいました。出火原因は漏電であったと言われています。

第一囘假議事堂全景
第一囘假議事堂全景

第一囘假議事堂貴族院議場
第一囘假議事堂貴族院議場

わずか2か月で焼失した第一次仮議事堂の外観と議場の写真です。玄関は中央に一か所のみ設けられていました。仮議事堂はこの後同じ場所に2度再建されますが、建物の全体的なデザインはこの第一次仮議事堂を踏襲する形となりました。貴族院議場には演壇の奥に玉座があります。

帝國議事堂炎上之圖
帝國議事堂炎上之圖

「帝国議事堂炎上之図」には真っ赤な炎に包まれた仮議事堂の様子が描かれています。火元が衆議院であったため、向かって左側(衆議院側)の炎が大きくなっています。錦絵は明治24(1891)年2月の出版なので、火災の直後であることからも、仮議事堂炎上の衝撃の大きさがうかがえます。

第一次仮議事堂の火災は、第1回帝国議会の会期中の出来事でした。帝国議会は新たな仮議事堂の再建を待つことなく、一時的に別の建物に間借りする形で引き続き開催されました。貴族院は当初華族会館(旧鹿鳴館)を使用し、華族会館が手狭であることから帝国ホテルに移っています。一方、衆議院は東京女学館(旧工部大学校)を使用しました。残念ながら、これら3つの建物も、現存しているものはありません。

華族会館
鹿鳴舘

当時華族会館として使われていた、旧鹿鳴館の写真です。第一次仮議事堂の火災からわずか半日後の明治24(1891)年1月20日午後、貴族院の集会が開かれ、関係者による火災の報告と伊藤博文議長による今後の議会運営についての説明がなされました。元々は不平等条約改正に向けた外務卿・井上馨主導の欧化政策の一環として、イギリス人建築家ジョサイア・コンドル(Josiah Conder)の設計により建設された洋館です。所在地は麴町区内山下町(現:千代田区内幸町1丁目、地図の「華族會舘跡」)。

帝国ホテル
帝國ホテル

程なく、貴族院は帝国ホテルに移りました。第一次仮議事堂火災の前年にあたる明治23(1890)年に完成・開業したホテルです。鹿鳴館同様、井上馨の主導により創設されました。建築技師の渡辺譲が設計を担当、所在地は麴町区内山下町(現:千代田区内幸町1丁目、地図の「帝國ホテル」、現在の帝国ホテルと同じ場所)で、華族会館とは隣接していました。

東京女学館
東京女學舘

当時東京女学館として使われていた、旧工部大学校の写真です。貴族院と同様、明治24(1891)年1月20日の午後に衆議院の集会が開かれました。所在地は麴町区三年町(現:千代田区霞が関3丁目、地図の「華族會舘」があるブロック)。手前に皇居の外濠が写っていますが、この部分は現在埋め立てられています。

第二次仮議事堂

第一次仮議事堂が火災により失われたことに伴い、新たな仮議事堂を建設することになりました。
設計したのは第一次仮議事堂設計にも参加した内務省技師(臨時建築局は明治23(1890)年3月に廃止)の吉井と、ドイツ人建築家オスカール・チーツェ(Oscar Tietze)です。「第二次仮議事堂」が完成したのは明治24(1891)年10月、第一次仮議事堂の火災から9か月後のことでした。第一次仮議事堂に類似した外観を持つ、同じく木造2階建ての建物でした。第一次仮議事堂との相違点として、中央の玄関に加えて貴族院・衆議院それぞれにも玄関が設けられたことが挙げられます。
それから30年以上にわたり、第二次仮議事堂は帝国議会議事堂としての役目を果たしました。大正12(1923)年に発生した関東大震災でも建物は倒壊や類焼といった最悪の事態は免れます。しかし、震災で受けた被害は少なからずあり、それを補修するための工事が進められていた大正14(1925)年9月、工事業者の火の不始末による火災が発生し、第二次仮議事堂は第一次仮議事堂と同じく焼失という最期を迎えてしまいました。

第二囘假議事堂全景
第二囘假議事堂全景

第二囘假議事堂貴族院議場
第二囘假議事堂貴族院議場

第二次仮議事堂の写真です。外観を見ると、中央・貴族院・衆議院の3か所の玄関があることがわかります。議場では、登壇するための階段など、演壇付近のデザインに第一次仮議事堂との違いが見られます。

九月十八日炎燒ノ景
九月十八日炎燒ノ景

第二次仮議事堂の火災の様子を撮影した写真。骨組みだけを残して焼け落ちた仮議事堂の正面玄関、建物を覆う炎と煙、一方で懸命に消火活動をする消防士という対比が印象的です。

広島臨時仮議事堂

この第二次仮議事堂が使われていた期間中に、日本は日清戦争・日露戦争・第一次世界大戦という3つの大きな戦争を経験します。日清戦争中の明治27(1894)年には、東京ではなく別の都市にある臨時仮議事堂で第7回帝国議会が開催されました。それは当時大本営が置かれて明治天皇が滞在し、臨時首都の様相を呈した広島です。議会政治の歴史の中で、帝国議会や国会が東京以外の場所で開かれた唯一の例となっています。所在地は陸軍西練兵場内(現:広島市中区基町)、木造平屋建て、設計したのは本議事堂の建設計画にもかかわった建築家で、当時は内務省に所属していた妻木頼黄(つまきよりなか)です。その後、帝国議会は東京の第二次仮議事堂へと戻ります。広島の臨時仮議事堂は予備病院や兵舎といった陸軍の施設に転用されたのち、明治31(1898)年に取り壊されました。

臨時議會全景
臨時議會全景

廣島の臨時假議事堂貴族院議場
廣島の臨時假議事堂貴族院議場

広島臨時仮議事堂の外観と議場の写真です。この臨時仮議事堂は、設計や職工の手配から完成まで20日というわずかな工期で造られました。短期間で完成させるため、妻木はさまざまな工夫をこらします。まず、建設にあたって基礎工事を省略しました。この臨時仮議事堂は言うなれば「掘っ立て小屋」だったのです。臨時仮議事堂が建てられた土地は砂地であるため掘っ立てでも3、4年は持つだろうと妻木は見込んでおり 、事実、この建物が取り壊されたのは完成から4年後のことでした。また、木製の電信柱の余りを使うことで木材の不足を補いました。議場の写真を見ると天井には梁がむき出しになっていますが、これも工期短縮のためやむを得ずこうなったものです。妻木は生涯にわたって帝国議会議事堂の建設に熱意を持っていましたが、「仮」ではない本議事堂の設計を担当することは叶いませんでした。

第三次仮議事堂

大正14(1925)年12月、わずか3か月弱の工期を経て、新たな仮議事堂が完成しました。第一次・第二次仮議事堂と同じく木造2階建ての建物でした。昭和11(1936)年に現在の本議事堂が完成するまでの10年あまりの間、この「第三次仮議事堂」が帝国議会議事堂としての役目を果たしました。

全景
全景

第三次仮議事堂の写真です。基本的な構造は第二次仮議事堂を引き継いでいますが、玄関などがより壮麗になっています。

大日本職業別明細図 麹町区
大日本職業別明細図 麹町区

大日本職業別明細図 麹町区(拡大)

昭和12(1937)年に出版された東京市麴町区の地図です。本章に登場した東京の地名については、必要に応じてこちらの地図をご参照ください。

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第2章 本議事堂の完成



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