写真の中の明治・大正 国立国会図書館所蔵写真帳から

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コラム<東北>

3 啄木・賢治の青春 盛岡中学校

岩手県立盛岡中学校
岩手県立盛岡中学校 『東宮行啓紀念写真帖』より

岩手県で最初の中学校として設立された盛岡中学校(現在の盛岡第一高等学校)は、多くの人材を輩出した。その中でも有名なのが、石川啄木(1886-1912)と宮沢賢治(1896-1933)である。賢治は啄木の11年後輩にあたる。

盛岡もりをかの中学校の
露台バルコン
欄干てすり最一度もいちど我をらしめ
  『一握の砂』 啄木

後年啄木が詠んだバルコニーを持つ校舎は、美しい白塗りであるため白亜館と呼ばれていた。明治18年(1885)の建築で、現在の岩手銀行本店の位置にあった。

啄木

啄木は明治31年(1898)、満13歳で入学した。1学年上には時代小説『銭形平次捕物控』で知られる小説家で、音楽評論家でもある野村胡堂、2学年上には生涯啄木の面倒をみた国語学者の金田一京助、そして4学年上には第37代総理大臣をつとめ、第二次世界大戦終戦時の海軍大将となる米内光政が在籍するなど、後に政財界や文学界で活躍する人物がひしめいていた。

渋民村で神童と言われた啄木は、128人中10番の成績で入学したが、次第に文学に傾倒し学業はおろそかになっていく。英語学習のためのユニオン会の立ち上げ、教員の欠員と内輪もめに対するストライキへの参加、あげく、卒業を目前にしてカンニングをきっかけに退学する(明治35年(1902))など、エピソードには事欠かない。

また、妻となる堀合節子と出会ったのも中学時代である。節子は当時私立盛岡女学校に通っていた。

教室の窓よりげて
ただ一人
かの城址しろあとに寝に行きしかな

不来方こずかたのお城の草に寝ころびて
空に吸はれし
十五じふごの心
  同上

賢治

賢治は明治42年(1909)に入学。満12歳。歌稿はこの春からはじまっている。翌年には啄木の『一握の砂』が刊行されており、賢治の詩の三行書き、四行書きは啄木に影響されたという説もある。

中の字の徽章を買ふとつれだちてなまあたたかき風に出でたり
 歌稿〔B〕明治42年4月より 賢治

岩手山
岩手山 『東宮行啓紀念写真帖』より

啄木と同じように城址に寝転んだ歌も作っている。盛岡城は明治7年(1874)に取り壊されたままとなっていたが、啄木卒業から賢治入学までの間の明治39年(1906)に岩手公園となった。

城址の
あれ草に臥てこゝろむなし
のこぎりの音風にまじり来
  歌稿〔B〕大正3年4月

中学時代の賢治は、舎監排斥運動で退寮となるなど意外なエピソードも残している。また、中学2年の初登頂以降、何度も岩手山に登り、植物や鉱石を採集した。山の中の料理店、チェロの弾き方を教えてくれる動物、鉱石に彩られた銀河鉄道といった賢治の感覚は、こうした登山や盛岡散策で培われたと言えよう。

岩手やま
いたゞきにして
ましろなる
そらに火花の湧き散れるかも。
  歌稿〔B〕大正6年7月より

モダンでハイカラな街 盛岡

盛岡中の橋
盛岡中の橋 『大日本写真地理』より

賢治はその後、盛岡高等農林学校(現在の岩手大学農学部。ただし賢治が入学する前の写真で、校舎は違うもの。)に進学し、10年近くを盛岡で過ごす。

本電子展示会で紹介している盛岡の写真は、明治41年(1908)と大正4年(1915)のものが主であるが、これはちょうど賢治が盛岡中学校に在籍していた前後にあたる。つまり、ここには賢治が見ていた当時の盛岡の様子が残されているのだ。

弧光燈アークライトにめくるめき、
羽虫の群のあつまりつ、
川と銀行木のみどり、
まちはしづかにたそがるゝ。
  『岩手公園』

右の写真中、中津川にかかる中の橋の向こうに写っているのは、明治44年(1911)に建てられた盛岡銀行本店。賢治の詩に登場する「銀行」である。現在も岩手銀行中ノ橋支店として営業を続け、有形文化財として国に指定されている。当時の盛岡は、明治38年(1905)に電気が通り、川や橋にはアークライトの電灯が灯されていた。電灯のなかった花巻から来た少年賢治の目には、最先端に映ったであろう。

小岩井農場
小岩井農場 『東宮行啓紀念写真帖』より

また、岩手山の南麓の小岩井農場は、明治24年(1891)開業、明治35年(1902)にはバターの市販を始めるなど近代的な総合農場として発展していた。従業員子弟のための小学校や保育所も併設するなど、開明性にあふれていた。賢治は、中学2年の岩手山登山の帰りに立ち寄って以来、何度も訪れて詩に描いている。(写真右側に写っている塔は「さびしい観測台」、左の建物は「本部の気取つた建物」、いずれも賢治の詩『小岩井農場』より。本部建物は現在も使われている。)






第二のふるさと

賢治は、岩手を「イーハトーヴォ」、盛岡を「モリーオ」と名付けた。

あのイーハトーヴォのすきとほった風、夏でも底に冷たさをもつ青いそら うつくしい森で飾られたモリーオ市 郊外のぎらぎらひかる草の波
  『ポラーノの広場』

賢治が中学生活を満喫していた頃、啄木は北海道の放浪から最後の上京を経て、一家5人を背負いながら、借金と遊興と文筆に明け暮れ、明治45年(1912)、27歳で没した。賢治もその約20年後に、理想と現実の間で過労に倒れ、昭和8年(1933)、37歳で没する。生きているうちには成功しなかった二人が、青春を謳歌した第二のふるさと。それが盛岡なのである。

やまひのごと
思郷しきやうのこころ湧く日なり
目にあをぞらのけむりかなしも
  『一握の砂』 啄木

引用・参考文献