写真の中の明治・大正 国立国会図書館所蔵写真帳から

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コラム<関西>

3 京都インクラインと琵琶湖疏水

インクラインとは?

インクラインの写真
インクライン 『京都名所帖』より

右の写真は、『京都名所帖』(明治40年)に掲載された京都盆地の東端、蹴上(けあげ、京都市東山区)のインクライン。

"京都の名所"といえば、神社仏閣のイメージが強い。『京都名所帖』『京都名勝』など、明治の写真帳を眺めていても、八坂神社清水寺など、由緒ある古い寺社が目立つ。そのなかで明治23年(1890)完工のインクラインは、「新しい」京都名所として異彩を放っている。

「インクライン」は傾斜鉄道とも呼ばれ、運河や山腹など、傾斜となった路面で貨物を運搬するためのレールや機械を指す。この京都のインクラインも、水力発電を利用した、舟を運ぶための鉄道であった。写真の中央に目を凝らすと、レールとその上にのった台車が見える。この台車が舟を乗せる舟台である。

インクラインと琵琶湖疏水

なぜ舟を運ぶための鉄道が必要になったのか。このインクラインは、琵琶湖の水を京都に引き込む疏水工事(明治18-23年)の一環としてつくられた。インクラインの全長は587m。

疏水工事以前、京都と大津の間の輸送は人馬に頼っており、大規模な輸送を行うことは難しかった。琵琶湖疏水工事によって水路を開き、舟運による輸送を可能にすることが、遷都後の京都を発展させる道であると期待されていた。

この疏水事業は、琵琶湖から京都市内まで、山々を貫いて20kmを水路で結ぶという壮大な工事であっただけでなく、舟運の向上、水道用水の確保、灌漑、発電などを目的とする総合開発事業でもあった。

疏水は、琵琶湖のある大津にはじまって、長等山などに掘られたトンネルを抜け、さらに山麓をめぐって蹴上に出る。この蹴上から、インクラインを利用して高さ35mの急勾配を下り、鴨川経由で京都市の中心部に入っていく。

舟は自力では急な傾斜を下れないから、この勾配を下るために舟を運ぶ鉄道(インクライン)が必要になったのである。

インクラインの写真
インクライン 『都名所写真帖』より。舟台を引くワイヤが見える。

「船頭なくして舟山に上るの奇観は此処に見ることを得べし、物質的文明の進歩驚くに堪えたり、疏水工事中最(も)人目を惹くもの亦之れなり」という右の写真に付されたキャプションからは、インクラインを見た当時の人々の驚きが伝わってくる。

京都府知事・北垣国道と土木技術者・田辺朔郎

疏水工事の構想は江戸時代にもあったが、1,250,000円余という、当時としては破格の支出を乗り越えて工事を推進したのは、第3代京都府知事・北垣国道であった。

一方、北垣知事に見出されて工事を任されたのが、土木技術者・田辺朔郎である。明治16年(1883)、京都府御用掛に採用されたとき、田辺は弱冠21歳。構想の原型は、工部大学校の卒業論文「琵琶湖疏水工事の計画」にあったといい、その早熟さに驚かされる。

21年(1888)にアスペン(Aspen:アメリカ合衆国)で世界初の水力発電が成功すると、田辺は早速視察に訪れている。琵琶湖疏水工事での水力発電の採用を決めたのも田辺の影響が大きい。ここに蹴上において、日本初の水力発電所が営業を始めることになる。

今日、工事の図面や写真、関係資料は田辺の著作『琵琶湖疏水工事図譜』や、琵琶湖疏水記念館(京都市上下水道局ホームページ)で見ることができる。

「土木遺産」としてのインクライン

舟運の衰退もあって、インクラインの運転は、昭和23年(1948)に休止された。

だが土木遺産としての価値が認められ、58年(1983)には京都市の文化財に指定された。また、平成9年(1997)に開通した東西線(京都市営地下鉄)蹴上駅の工事に伴って、復元工事が行われた。

レールを支える盛土や石積みの技法、英国製や八幡製鉄所製のレール。インクラインは、往時の土木技術のありようを伝える貴重な遺産である。レールの両脇には桜が植えられ、今日、この地区は桜の名所となっている。

引用・参考文献

  • 田辺朔郎『琵琶湖疏水工事図譜』田辺朔郎,明治24(1891) 【400-45】
  • 琵琶湖疏水図誌刊行会編『琵琶湖疏水図誌』東洋文化社,1978 【YP14-496】
  • 西川幸治「京都の近代化と田辺朔郎」『近代土木技術の黎明期:日本土木史研究委員会シンポジウム記録集』土木学会,1982 【NA23-E26】
  • 松浦茂樹『明治の国土開発史:近代土木技術の礎』鹿島出版会,1992 【DL825-E40】
  • 「土木の風景 琵琶湖疏水インクライン(京都市東山区)地下鉄工事に伴って土木遺産を解体,復元」『日経コンストラクション』198号,1997.12.26 【Z16-1928】
  • 『京都名所帖』京都市参事会,明治40(1907) 【407-5】
  • 小林忠次郎編『京都名勝』小林写真製版所,明治40(1907) 【94-511】