高輪
東京都 港区
高輪
現在の港区南東部、東海道を中心とし、北と西は芝、南は品川と隣接した地域の名称。地名の由来は、「高い縄手(畦道)の略」等諸説あり、「高鼻和」、「高名輪」、「高畷」と記載された史料もある。1月と7月の26日には月の中に阿弥陀、観音、勢至(せいし)の三尊の姿が現れるとされ、月の出るのを待って拝む「二十六夜待」は、特に高輪から品川の海辺で盛んに行われた。宝永7(1710)年、現在の高輪2丁目に、御府内と御府外を区別する木戸「高輪大木戸」ができ、高札場の役割も果たした。なお、伊能忠敬は、この地を全国測量の基点としている。また高輪中町(現在の港区高輪3丁目)の東禅寺は、幕末に英国仮公使館が置かれたところである。
錦絵・絵画等
江戸名勝図会 高縄
高輪
江戸名所 高輪秋の景
東都月の三景
東都名所 高輪全図
江戸自慢三十六興 高輪廿六夜
東海道名所之内 高輪大木戸
東都高輪風景
諸国名所百景 東都高輪海岸
東都名所 高輪の景
写真
東京風景
東京風景
その他の資料
- 高輪大木戸(本文) 『江戸名所図会 7巻』(1834)
- 高輪大木戸(挿絵) 『江戸名所図会 7巻』(1834)
- 高輪海辺 七月二十六夜待(挿絵) 『江戸名所図会 7巻』(1834)
高輪牛町
東海道を南に下り、古川に架かる金杉橋、芝田町を経て、高輪の大木戸と品川宿との間に位置する町。寛永11(1634)年の増上寺安国殿建立、13(1636)年の市ヶ谷見附石垣普請の際、当時江戸にはなかった重量運搬機である牛車が大量に必要となり、幕府が京都四条車町の牛屋木村清兵衛を中心とする牛持人足を呼び寄せて材木や石類の運搬に当たらせた。工事終了後、褒美として、この町での定住を認め、牛車を使っての荷物運搬の独占権も与えたため、「車町」(通称牛町)とよばれるようになった。『江戸名所記』によれば、牛の数は多い時で、およそ千頭に及んだという。西側は車置場や牛小屋が並んでいたが、東側は海で眺望にすぐれ、月見の名所として、7月26日の二十六夜待(にじゅうろくやまち)、8月15日の仲秋の名月には大勢の人が集まり、賑わいを見せた。
錦絵・絵画等
名所江戸百景 高輪うしまち
高輪海岸
東海道 高縄牛ご屋
その他の資料
泉岳寺
橋場の総泉寺、芝愛宕下の青松寺(せいしょうじ)と並び「曹洞宗江戸三ヶ寺」と称される。慶長17(1612)年、徳川家康の命により創建。開創者は門庵宗関(もんなんそうかん)。寛永18(1641)年の大火で焼失したため、現在の地に替地を与えられ、外桜田から移転した。なお、開創地や移転の年は異説があるが、『寛永江戸図』左上部によれば、「ためいけ」の南に「せんかくし」とある。山門周辺には9棟の学寮が置かれ、100~200人の学僧が修学していたが、赤穂藩主浅野家の菩提寺となり、元禄15(1702)年の赤穂浪士討入事件の後は、藩主浅野長矩(ながのり)及び四十七士の墓があることで有名となった。
錦絵・絵画等
泉岳寺開帳詣
東都高輪泉岳寺開帳参里の図
写真
東京景色写真版
東京景色写真版
東京景色写真版
旅の家つと 第29 都の巻
仁山智水帖
東京風景
その他の資料
- 万松山泉岳寺(本文) 『江戸名所図会 7巻』(1834)
- 泉岳寺(挿絵) 『江戸名所図会 7巻』(1834)






